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海蛍 3
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悲しみを押し殺しながら兵舎へ戻った薫を待ち構えていたのは、自分よりも身分の上の若い
兵士たちだった。
鍛えられた軍人集団の中で、薫の美しい容姿は常に目立つ存在でもあり、明日をも知れない
自らの命に対する苛立ちの矛先を、この先輩兵たちは薫へぶつけていた。
「時間が出来れば外へ出ていくけどお前、女でもいるのか?」
「自分にそのような存在の者はおりません」
「女じゃなくて、お前が女の側として売りに出ていたとか?」
先輩と言う名の下衆な男たちが声を立てて笑いだす。
姉を失い弔った直後の薫に容赦ない罵声が浴びせられる。
しかし、ここで反論しても反感を買い暴力は増すだけである。
腹は立つが薫はじっと堪えて先輩たちが飽きて去るのを待つ。
「ヨーチン野郎は、お気楽でいいよなぁ。
俺たちが前線で命懸けで戦っていても、お前らはヨーチン持って右往左往してりゃ、
それで任務遂行なんだからよ」
当時、衛生兵は医療に関わる一般的な業務を任務としていた。
戦闘での負傷兵への応急医療だけでなく、後方での傷病兵の看護及び治療、部隊の衛生状態の
維持も担当していた。
しかし、現実に薫ら衛生兵には医療行為である診断・治療は認められず、戦局が厳しくなるにつれて
使用できる薬剤も限られヨードチンキを手に走り回ることしか、許されなくなっていた。
そんな衛生兵も、一度でも最前線に出て負傷した兵は『衛生兵殿』と敬意を込めて呼んだ。
それは戦地において兵士は勝手に後退することが許されず、また、負傷した戦友を置いて
前進することもあったので、戦闘中に負傷した兵士は衛生兵が来ることにより、まさに紙一重で助かる
可能性があることを意味した。
戦場で敵弾に倒れた仲間兵士を弾の飛び交う中、衛生兵は自らの命を懸けて負傷兵を後退させる
ことも役割の一つとして担っていた。
しかし、まだ戦場を知らない若い先輩兵士たちは、自分たちと同じ待遇を受けながらも、ヨーチンを
手に動き回る薫の姿が許せずにいた。
人目を避けるように、些細なことで薫に難癖をつけ暴行を行い、鬱憤を晴らしていたのだ。
医師を目指していた薫もまた、ヨーチンを携え動き回るしか出来ない己の姿を恥じるほどに
情けなく思っていた。
『いつか…いつか戦争が終わったら、絶対に俺は医者になるんだ』
薫を支えていたのは、この思いだけだった。
痛みが次第に感じなくなって来た気がする。先輩の罵声も嘲笑も意識も全てが遠くなっていく。
姉が死んだ今、もう生きることに意味も見いだせなくなりつつあった。
『姉ちゃん、迎えに来てくれよ。一緒に行こう……』
薄れる意識の中、薫は姉に問いかけた。と、その時だった。
「お前たち、一体、何をしているんだ!?」
偶然通りがかった者の低く底冷えのする一声が、すべてを止めた。
「この橋本上等衛生兵に帝国海軍軍人にあるまじき府抜けた言動があり、先輩である我々が
帝国軍人としての心構えを再教育をしていたのでありますっ!!」
先輩の焦り具合と声の調子で、相手となっている者がかなりの身分であることがわかる。
「お前たちは戦いに出たことがあるのか?」
「いえ、自分たちはまだであります。
しかし、いつでも命令が下れば、お国のためにこの命を捧げる覚悟は出来て…」
相手はその言葉を遮った。
「一度でも戦場に出て地獄を見た者は、衛生兵に尊敬の念を抱くものだ。
戦場では衛生兵はある意味、一般兵士より過酷な任務を背負うからな。
その衛生兵を愚弄するのは、まだ本当の戦場も知らない青二才だ。
いいか、兵士は皆、この国を護るために働く大切な存在だ。
貴様ら如きがこの様な制裁を加えることは決して許されない。今日は見逃す。
しかし、二度目は規律を守るために正当な理由の元、お前たちに懲罰を与える。
さぁ、行け。お前らを見ているだけで私は非常に不愉快だ!」
怒鳴り声と共に、慌てふためき駆け足で去る足音が次第に遠くなる。
「おい、大丈夫か?」
薫は抱き起こされ顔の泥を手で拭われたが、痛みで思わず顔を顰めた。
腫れあがった瞼の僅かな隙間から一瞬、見えたのは純白の軍服。
自分がこれ以上、不本意な暴力を受けなくて済んだことを理解した薫は安堵すると同時に意識を
完全に手放した。
暖かな手が自分を慈しむかのように頭を撫でてくれることが心地よかった。
高熱を出したとき、姉の敏子が寝ずにこうして看病してくれたことを思い出す。
薬など口に出来るはずもない貧困の中、敏子はいつも頭を撫でてくれた。
死さえ覚悟した病も、敏子の手はその病魔でさえ取り払ってくれた。
『元気になって、薫。あなたは幸せになるために生まれて来たのだから』
敏子の声が聴こえた気がした。敏子の思いに涙があふれ出る。
その涙に気付いた手が、薫の涙を拭う。
自分が男であっても、海軍軍人であっても、敏子の前では恥ずかしさは感じない。
敏子のその手は薫の終の嗚咽までもを呼び起こした。
「!?」
頬に触れたその手が、やけに大きく敏子のものではないと薫は気づいた。
そう、敏子は自死したのだ。そして、その亡骸を荼毘に付したのは自分。
だったら、涙を拭うこの手は一体!?
薫は驚き、その手を押しどけるように跳ね起きると羞恥と恐怖の入り交じった眼差しを、その手の
主に向けた。突然に撥ねつけられた手を宙に浮かせたまま、手の主は薫を心配そうに見つめていた。
そこは身分ある者が与えられる個室であり、自分のような者が出入りすることなど許されない
場所でもあり、自分を介護してくれていたであろうその男の身なりを見ただけで、かなりの身分で
あることもすぐに理解できた。
「慌てる必要はないし、気遣いも無用だ。相当の怪我を負っているんだ。
今は何も考えず黙って身体を治すことだけを考えればいい」
男は宙に浮いた手で起き上がりかけた薫の肩をそっと掴むと、再びベッドに横たわらせた。
「醜態をさらして申し訳ありません。自分は橋本薫上等衛生兵であります。あなたは……」
「私は日向総一郎。身分は大佐だ」
大佐と聞いた瞬間、薫は総毛だちわなわなと震えながらも立ち上がろうとした。
海軍大佐と言えば、かなりの位の艦ひとつを任せられる程の地位にある。
普通であれば、一介の衛生兵がおいそれと口などきけることも許されない。
しかし、立ち上がろうとすればするほど、薫は焦り思うように身体を動かせない。
頭から血の気が一気に引いたと思ったと同時に、天井がぐるりと回り倒れることを覚悟した時、
その不安定な身体を日向が慌てて抱きとめた。
「橋本上等衛生兵、これは命令だ。ひとりで起き上がれるようになるまで、ここで休んでいるんだ」
日向の自分への眼差しはまるで、敏子を彷彿させた。
「申し訳ありません……」
逆らえないと悟った薫は、日向の言葉のまま横たわった。
軍に入隊して初めて薫は、他人から安らぎを与えられた気がした。
余程安堵したのだろう。次に目覚めた時、窓の外は既に闇に包まれていた。
困惑し彷徨う薫の視線が捉えたのは、机に向って姿勢を正して書き物をしている日向の後姿だった。
「申し訳ありませんっ!」
部屋の主でもある上官の日向を差し置き、何時間もベッドを占有していたことを悟った薫は冷汗の中、
飛び起きた。もう眩暈はなく、辛うじて直立不動を保つことが出来ていた。
『弛んでいるぞ!』
そう言われて殴られることを覚悟し、奥歯を噛みしめ腹に力を入れた薫に
「腹が減ったろう」
と、日向は食事の乗った台を指さした。
冷めてはいたが、それは薫のような一兵卒が食するものとは違う豪華なものであった。
日頃、自分にはあり得ない食事を前に不覚にも薫は生唾を飲み込んだ。
その嚥下する音が日向の部屋に恥ずかしいくらいに響く。
「腹が減っただろう。私は今日、外出した際に食べてきて食事をする必要はない。
暖かなうちに起こして食べさせようとも思ったが、橋本上等衛生兵には食事よりも睡眠の方を
優先すべきだと判断した。
冷めてはしまったが、食べた方がいい。空腹は身も心も空しくさせるからな」
最愛の姉を失ったと同時に現れた自分を慈しんでくれる日向の存在は、絶望へと滑落寸前だった薫に
生きたいという思いを沸かせ始めていた。
生まれてからこんな贅沢な食事らしい食事などしたことがなかった薫は、日向の厚意を一口ずつ
味わいながらそれを食した。日向はそんな薫の姿をまるで肉親のように見つめた。
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