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海蛍 4
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日向は薫より十三歳年上で未婚、自分のような者を大佐にしなければならない程に今の戦局が
苦しいのだと笑った。
空襲で身内すべてを亡くしたと、窓の外の闇に目をやる日向の姿に薫は思わず姉を亡くした自分の
姿を重ねて見た。
「自分は……」
薫は幼い頃からの身の上話を始めた。
自分を包み込むような眼差しで薫の話に耳を傾け頷く日向に、気づけば姉がこの土地の遊郭に売られ
自死したことまでもを話していた。
ふと我に返り見上げた日向の顔は苦渋に満ちていた。
旧家に生まれ帝国大学を出た、まるで神に選ばれたかのような日向と、あまりに身分の違いすぎる自分。
日向に情けなさすぎるすべてを話てしまったことに気付き、薫は話を途切らせ黙り込んだ。
遊郭に身を売った姉の存在を、この潔癖な上官には異次元の穢れにしか思えないだろう。
それでも、言わなければならない。大好きな姉の名誉のために。
「姉は素晴らしい人でした。自分は姉を誇りに思います」
思いのすべてを語り終えた薫。しかし、日向の口は閉ざされたままだった。
潔癖なこの人は、明日から自分の姿を目にしてももう、その存在さえ無きものとするのだろうと
漠然と思った。けれども、僅かな時間、自分は確かに救われたし幸せだった。
貧困、姉の身売りと自死、どんなに足掻いても学のない貧しい小作人の息子である自分と日向に
生きる中で交点などあるはずがなかったのだ。
そう、今までも理不尽な人生を納得してきたのではないか。
日向に与えられた夢から覚める時が来たのだ。薫は立ち上がると日向に向けて姿勢を正した。
「本日、日向大佐から受けたご温情。自分はこの身を散らせても忘れることはありません。
ありがとうございましたっ!!」
思いの丈をこめて薫は直立不動で日向に敬礼をする。
痛みを感じたのは怪我をした傷ではなく、すべてを知った日向とは二度とこの様な時間を持てないで
あろう心の疼きだったのだろうか。食器を手に部屋を出ようとした時だった。
「こんな時世に生まれてしまったこと、誰もが辛く苦しく思っているだろう。
如何なることがあろうとも、夢だけは捨てるな。
そして、誰よりもお前を思い尽くした姉上を誇りに思いなさい」
思ってもいなかった日向の言葉。持っていた空の食器に涙がいくつもこぼれ落ちる。
先輩たちにどんなに酷い仕打ちを受けても、敏子が亡くなっても泣かなかったと言うのに、涙腺が
崩壊したかのように薫の頬に涙が伝う。
「私も天涯孤独の身。もし良ければ、これからも話し相手になってはくれないか」
薫が日向に特別な感情を抱いた瞬間だった。
この日を境に薫は、生まれて初めて生きることに喜びを見いだせるようになった。
昇進した訳でも、給金が上がった訳でもなく、陰では相変わらず意地の悪い上官たちに目をつけられ、
痣が出来るほどの教育という名の制裁も受けてはいたが、遠くであっても日向の姿を目にすると全ての
辛さ苦しみをも忘れられた。
自分とは階級も違い会話などする機会はあれ以来、皆無ではあったが、日向の中に確実に自分の存在があると思うだけで薫は満足だった。
翌月のある日、一日の成すべきことをすべて終えた薫が部屋へ戻ると、机の上に小さな菊の花束が
置いてあった。
その日は姉、敏子の祥月命日であり、薫はその菊の花をわざわざ持参したのが日向であることにすぐに気づいた。
「敏子姉ちゃん、日向大佐がこれを……」
純白の菊の輪郭が次第に滲むようにぼやけて見えてくる。
最愛の姉を亡くしてまだひと月しか経っていないというのに、日向の心遣いが嬉しくて。
手にした菊の花びらが弾かれるように小さく揺れる。
薫の涙を受けながら。始めは姉への心遣いへの嬉し涙だったが、花びらが揺れるたびにその涙は
苦しく切ないものに変わっていく。
敏子を亡くしたことは辛いのに、日向のことを思うとそれ以上に辛く胸が痛む。
自分が日向に対して持ってしまったその気持ちに気付いた薫は、菊を手にしたまま思わず天を仰いだ。
「姉ちゃん。俺、日向大佐のことが……」
薫が生まれて初めて好きになった人は、あまりに身分の違いすぎる同性だった。
菊の花は薫の涙を受け儚く光る。
日向の思いのこもった菊の花を活けようと、暗い人気の絶えた炊事場に立ち入った時だった。
「生ぬるい仕事をしていると、女々しい趣味に走るんだな」
背後から聴こえたのは、蔑む思いのこもった嘲笑交じりの言葉。
振り返ると闇の中には、いつもの五人が立っていた。
「帝国軍人が花などに現を抜かすなど、言語道断だ!」
言葉と同時に、薫の手から奪われた花は無残に床に叩きつけられた。
驚き言葉を失う薫の前で、男たちはその花を嗤いながらなおも踏みにじる。
「やめてください!これは亡くなった姉へ手向ける花なんですっ!!」
逆らうことが許されない中、薫は菊を踏みつける無慈悲な上官の足にしがみ付き懇願した。
踏みつけられる菊を護ろうと薫は自らの手を差し出し男たちに踏まれ続けた。
白い菊は薫の血を受け朱に染まっていく。
「その姉ってのは、遊郭で男相手に稼いでいた阿婆擦れだったんだってな」
自分の手を踏みつけながら、男の一人が薫の頭上から冷水のような言葉を浴びせた。
「この基地にお前の姉と寝た男ってのを集めたら、一個小隊どころか中隊くらい編成できるんじゃ
ないのか!?」
踏まれた菊はもう、花の片鱗もなくなっていた。まるで日向の存在までも踏みつけ消し去るように。
死を選ぶしかなかった不憫すぎる姉を愚弄し笑い、日向の思いのこもった花までもを踏みにじられ、
薫の我慢は限界を超えた。
「謝れっ!姉ちゃんに謝れっ!!」
踏まれながらも薫は男たちを睨むように仰ぎ見ながら、怒りを込めて怒鳴った。
「お前、日向大佐に目を掛けられてるからって、生意気になったんじゃないのか?」
男は笑いながら薫の髪を鷲掴みにすると、その頬を思い切り殴った。
「売女の弟なんだろ?だったらその弟らしくお前もお国のために命懸けで働く俺たちに尽くしてみろよ」
次の瞬間、鳩尾を思い切り蹴り上げられた薫は、意識を失った。
辺りを見回し人気のないことを確認した男たちは、薫を背負うと離れの倉庫へ消えた。
そこには薫の血に染まる無残に散った菊の花だけが残された。
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