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海蛍 7
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日向に名を呼ばれてはっとする薫。その眼差は姉の敏子と錯覚しそうにさえなった。
「あ……あなたを殺してしまったら……俺、本当にひとりぼっちになって、しまうじゃないで、すか」
身体の芯から震える薫の手にある拳銃は、小刻みにカタカタと小刻みに音を立てる。
「お前の姉上と縁あって話す機会に恵まれた。姉上はお前の幸せだけを考え望んでいた。そして、その願いを私が引き継いだ。お前の行く末を見ずに自らの命を断ち切らなければならなかった姉上の気持ちを察するんだ。いいか、お前がすべきことは何があってもその命を未来に繋ぐことなんだ」
「こんな非道なことをされてもですかっ!?」
「そうだ。お前がどんなに辛くとも、俺はお前の陰になり支えにもなる。医者になりたいんだろう?医者を志す者が、自らの命を粗末にしてどうする?お前がここで死ねば、医者になったであろうお前に助けられるはずの多くの命は?」
「でも、でもっ!俺にはもうわからないんです。自分が何のために生きなければならないのかが!」
「……俺のために生きてはくれないか?」
思いがけない日向の言葉に薫の手はだらりと落ちると、銃を手放した。
「もうすぐこの戦争は終わる。敗戦という形でな。生きられなかった姉上の気持ちをも育みながら、新しい国をつくるために私と一緒に歩んではくれないか」
「こんなにされて、ボロボロになってしまった衛生兵の俺と日向大佐が……?」
「戦争に負ければ、階級なんて関係ないさ。お前と生きるためなら俺は田を耕し漁をして、土木作業をしてでもお前を医学の道に進ませてやるよ。だから、約束してくれ。何があっても生きる、生き残るって」
生活苦から親に疎まれながら育ち、唯一の味方だった姉とも死に別れ、自分にはもう何も残されてはいないと思っていた。
しかし、日向はそんな自分を親兄弟以上の親愛で慈しんでくれている。全身はまだ、暴行された傷が痛む。けれども、その痛み以上に日向の言葉がたまらなく嬉しい。生まれて初めて姉以外の人から、信頼以上の思いを持ってしまった日向からの言葉が絶望のふちにいた薫を『生きたい』と思わせた。
「うぁぁぁっ!」
薫は日向の胸にしがみ付き泣いた。硬くて冷たい床に背をつけたまま日向は薫をただ、抱きしめ続けた。
互いの温もりで生きていることをふたりは実感した。
怪我で安静を命じられ寝ている薫の元へ日向がやってきたのは、あの事件から三日後の午後だった。
「少しは良くなったのか?」
忙しかったので今まで見舞うことが出来なかったと非礼を詫びながら、日向は薫の顔を覗き込む。
「自分はもう大丈夫です」
慌てて起き上がろうとするが、痛みで薫の顔は歪む。
「いや、無理はするな、と、言いたいところなんだが……」
何事にも動じないはずの日向の一瞬の間合いが薫には気になった。
「あの、私のことで何か……」
「いや……急なんだが、明日から二泊で温泉へ行けないかと思ってな」
軍人である自分が、この大変な戦局時に温泉なんて。それも海軍大佐の地位のある日向と。驚き何と言葉を返していいのかわからない薫に日向は静かな眼差しで言った。
「軍の機密事項で詳細は語れないが、そちら方面へ私が出向く所用が出来た。
今回、任務にあたって一名の部下同伴が許され、私がお前を指名し許可は得ている。
しかし、許可よりもまずはお前の体調を考慮すべきだったな」
少し照れくさそうに日向は笑った。
日向ほどの身分であれば、同伴すべき下士官は自分よりも身分が上であって当然である。
なのに、日向はあえて自分を選んでくれたことが、薫には堪らなく嬉しかった。
そして、僅かに冷静さを失った日向の人間らしさを垣間見られたことも。
「自分はもう、大丈夫です。足手まといにはなりません。お願いですから任務に同行させてくださいっ!」
薫はベッドから飛び起きると、直立不動で日向の前に立ち敬礼した。
「わかった。ならば同伴を頼む。明日は午前5時にここを出て列車で移動をする。いいな?」
「橋本上等衛生兵、明日は日向大佐に同伴し、任務を遂行致します!」
日向が部屋から出たと同時に薫は、その場に座りこんでしまった。
「日向大佐と二泊の……」
床にひとつふたつと涙がこぼれ落ちる。
「俺の大佐に対する思いと、大佐が俺を思う気持ちって違うじゃないか。
大佐は敏子姉ちゃんから、俺のことを託されたからだってはっきり言ったじゃ…ない、か……」
瞳を閉じながら、薫は自分の日向へ対する思いをひとつずつ消そうとする。
「あの人は海軍大佐で、俺は小作人の息子。
あの人は帝国大を出た優秀な人で、俺は志半ばで挫折した落ちこぼれ。
あの人はやがて、身分に相応しい人と結婚する。そう、妻を娶って、それで、それで……」
思慮浅く浮かれながら返事をしてしまった自分を薫は心底悔いた。そして、眠れぬまま夜明けを迎えた。
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