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海蛍 13
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「言われた通りにお先に頂いていました。本当に美味しいですね、どの料理も」
日向が部屋に戻ると薫は、少し前まで遠慮気味だったのが嘘かのように膳の料理を嬉しそうに頬張っていた。
「自分はもう、ここに滞在している間、日向大佐の仰る通りに過ごさせていただくことにしました」
一口ごと笑顔を絶やさない薫に日向もまた笑顔になり席に着く。
頑なに断っていたはずの酒を飲み干すごとに、寡黙な薫は次第に饒舌になっていった。それまでの悲壮感は消え笑顔を絶やすことはなかった。
「もしも……お前に出撃命令が出たとき、会いたい人はいるのか?」
不意に出された日向のその言葉。
「親とは縁を切られていますし、姉も亡くなってしまいましたし自分には別段」
「肉親以外に誰かいないのか?」
薫の困惑を無視するかのように、日向はなおも薫に問いかけてくる。
「……いいんです、もう」
自らの心を悟られまいと、薫は酒に手を伸ばし日向から視線を逸らす。
「想う人がいるのか?」
僅かな距離から、一番それに触れて欲しくはない人から問われる言葉に薫は押し黙る。
日向の出撃が近いことを知ってしまった今、薫には何も聞かなかったふりをして取り乱さないことだけしか脳裏に浮かばない。
「入隊するまで生きることで精一杯だったんですよ。他の誰かを想う心の余裕なんて。
他の連中は出撃命令が出たら家族に会うか遊郭で羽目を外すかですが、自分は姉を思うととてもそん な気にはなれません」
「『いいんです、もう』が本音なんだろう?その人に会いには行かないのか」
日向の言葉がじりじりと自分を追い詰めてくる。この人を欺くことは無理なのだろう。
けれどもこの想いだけは絶対に口にできない。姉との出会いがきっかけで自分と関わってしまった日向に、これ以上の負担はかけられない。出撃前の残り僅かな大切な時間を自分に向けてくれたのだから。きっと自分も日向と共に艦に乗ることとなるだろう。
今は日向と楽しく過ごしたい。そして共に散り行きたい。日向が作ってくれたひとときを守りたい。
「…あ、あの、想いを伝えられない相手なんです」
「伝えられない?人妻なのか?」
「ち、違います!あの、その……自分がその人を好きだからって、出撃命令が出たからって、その事実を 突きつければその人は自分に同情してくれるかも知れません。
でも、心は向いてはくれない……それじゃ嫌なんです。
自分はその人の心が欲しいんです。一時の同情や偽りの言葉じゃなくて心が」
薫の辛そうな表情に日向は我に返った。
「済まなかった。
私も酔いが回ったようだな、お前の気持ちも考えず根掘り葉掘りと。許してくれ」
深く頭を下げる日向に薫は慌てる。
「や、やめてください!日向大佐のような方が、たかが一兵卒の自分に頭を下げるなんて!
だったら自分にも聞かせてください。大佐は姉のことを、どう思っていたのですか?」
聞くことが怖かった。姉を好きだと言われたら、他の誰かを好きだと言われたらときっと自分は壊れてしまうと思っていたから。
けれどももう、その質問を躊躇うことはやめた。躊躇うにはあまりに時間がなさ過ぎた。
「敏子さんには心に決めた人がおられたんだよ」
「え!?」
それが日向自身を指すことではないとすぐに理解できた。
「昨年末、私の先輩にあたる方が南方へと出撃して戦死した。
敏子さんはその方を好いておられたんだ。相手の先輩もまた、敏子さんを思っておられた。
出会って三カ月も経たなかったというのに、ふたりは互いに強く思い合った。
出撃命令が出た時、私は先輩から敏子さんの話を聞き後を託されたんだよ。
この戦いはもうすぐ終わるから、そうしたら彼女の力になって欲しいと。
その後、私は同期の者に頼んで敏子さんのいる店へ連れていってもらった。
奴からの遺書と遺髪を持ってな。
でも、敏子さんはそれを一読することなく私の目の前で燃やしてしまったよ」
「燃やしてって……」
「立派な海軍軍人さんが、自分のような者にこの様なものを残しては、後世本人や身内が恥ずかしい思い をするだろうからとな。敏子さんは泣くこともなく、それが燃え尽きるまでしっかりと炎を見つめていたよ。 荼毘に付された先輩を見送るかのように毅然として」
冷めてしまった徳利からコップに酒を並々注ぐと、日向はそれを一気に飲み干し小さく息を吐いた。
「先輩の敏子さんへの思いの深さを知っていたこともあって、友情と責任感で私は彼女の元を訪ねた。
しかし、彼女の聡明さと人柄、そして弟思いのその姿に私はいつしか自分の友人として彼女と接するよ うになっていた」
「友人……ですか?」
「あぁ、戦争が終わり互いに生き残っていたら、共に夢を叶えようと誓い合ったよ。
と、言っても敏子さんは自分の夢は弟の夢を叶えることだから、自分に何かがあったら弟を助けて欲しい と言っておられたがな」
やはり日向にとって自分の存在は敏子抜きでは有り得なかったのだと、薫は迷うことなく納得した。
それは悲しみの一端ではあったが、日向も敏子も互いに思い合ってはいなかったことだけは、薫の救いでもあった。
「ひ、日向大佐は思いを寄せている方はいらっしゃらないのですか?」
迫る命の刻限が、薫を次第に大胆にさせていく。
「……いるよ。思いを伝えられない相手だがな」
日向の言葉に身体の力が抜けていく。
「ははは……お前がさっき言った言葉を真似たんだよ」
そう言うと日向は大きな声で笑った。
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