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海蛍 15
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翌朝、気持ちの良いほどの青空の下、ふたりは釣り道具と女将が手渡してくれた弁当を手に宿を後にした。無論、昨日の敵兵偵察は日向の言い訳であることを承知で、薫はただ楽しむことだけを考え日向の後を歩いた。途中、道らしきものも消えて鬱蒼とした草をかき分けながらも押し進むと、微かに川のせせらぎが聞こえてきた。そして、背丈ほどの草を更に押し別け踏み入ると視界が一気に広がった。
「うわぁ」
真っ先に声を上げたのは薫だった。そう大きくはないが、穏やかに流れる透明感のある水面が朝日を受けて輝いていた。辺りを見回しちょうどふたりが座れるほどの石を見つけた日向は
「あそこにしよう」
と、指さしながら振り返り薫を見る。薫は嬉しそうに「はい」と言うと日向の後を歩く。
鳥のさえずりを聞きながらふたりは並び座ると釣り糸を垂らす。
ここへ来るまでの列車の席で初めて日向の身体に付くくらい密着をしたが、あの時はまだ多くの乗客もいて軍服を纏っていたこともあり、どうにか自制心を保てた。
しかし、今日は周囲には人はおろか小動物さえ気配がない。
隣で平然と釣り糸を見つめる日向の息遣いを感じるだけで、自分の大きくなった鼓動が日向に聴こえてしまうのではないかと薫は気が気ではない。
日向の釣り糸が川の流れに合わせて揺れるのに対して、薫の釣り糸は手元が震え絶えず小刻みに揺れる。握り方を変えて見たり深呼吸をしてはみるが、隣に日向がいる限りそれらの行為は何ら意味をなさない。
「釣りは初めてなんだろう?正しい方法なんてないさ。お前のやり方で、自由でいいんだ」
視線を動かさないまま日向が言った。
「でも、せっかくここまで来て何の釣果もなかったら……」
今度は釣竿を長めに持ち直し薫は答えた。
「確かにそんなに糸を揺らしたら、これは釣りだと魚に教えているようなものだよな」
日向は堪えきれずに笑いだす。改めて自分の不器用さを日向の前で曝け出してしまったことが恥ずかしくて薫はついに俯いてしまった。
「でもな……そんなお前だから釣られてやろうかって殊勝な魚も、この広い世の中にはいるかも知れないぞ」
「そんな魚いる訳ないじゃないですか。餌はおろか、人並みな釣り道具も無くて。精々、自分が落ちて魚の餌になるってことならあり得るかも知れませんが」
薫は自虐的に笑う。
「釣りの極意は俺には分からんが、ただお前が海に落ちたのならば俺は魚の餌になる前にお前を連れ戻 しに行くだろうな」
想像もしていなかった日向の言葉に薫は驚き、手の震えが止まった。
と、同時に手にしていた薫の竿が大きくしなり、惚けていた薫が放しそうになっていた釣竿を日向は慌てて掴む。薫の手を覆うように大きめの日向の手が薫にその熱と鼓動を伝える。
「いいか、すぐに引いてはだめだぞ。もう少し待つんだ、いいな」
日向は自分の釣竿を放り出すと、薫の背後から釣竿を一緒に掴んだ。
「魚が、魚が逃げてしまいます……」
「焦るから逃げられるんだ。どうしても手に入れたいからと強引にことをすすめようとするから。
もう、逃げられないというところまで待て。いいか、欲しいものはこうして手に入れるって覚えるんだ」
耳元で日向の囁きがあまりにも生々しすぎて、何の会話をしているのかわからなくなりつつある。
「力を抜いて、俺に任せておけ」
「……はい」
数分後、釣れたのは大きな川魚。石の上を尾びれをバタバタさせて水滴を飛ばしている。
「橋本、やったじゃないか!俺でさえこんな大物を釣り上げたことはないぞ」
日向はそれを見ながら子供のようにはしゃぎ笑った。
「私は釣り糸を投げ入れただけです。後は日向大佐がいなければ……」
日向との距離があまりに近すぎて動転している自分を鎮めようと、薫は冷静に言葉を返す。
「なぁ、橋本。釣りに拘らず、人とは何もかもすべてが整わないと生きることは難しいと思うか?」
しゃがんで暴れる魚の口から釣り針を取りながら、薫に背を向けたまま日向が薫に問いかける。
「自分にはわかりません。ただ、丸腰の者が希望を持って生きるのは、この世はあまりに過酷かと……」
「この魚、お前と俺のふたりがいたから釣れたんだよ。ふたりで力を合わせて釣れたんだ。
この国に残されたものはすべてがあと僅かだ。戦争が終わっても個人の力じゃ何も出来やしない。
これからは志を高く持って仲間を作り共に歩むことを考えるんだ。
失敗しても肩を叩いて励まし、再び歩むために手を差し伸べてくれるのが本当の仲間だ。
お前には優しさと知恵がある。
厳つい軍医には言えなくても、お前にならば自分の辛さを言えるという患者は必ずいる」
共に命の刻限が迫っているにも関わらず、日向は常に薫に生きることに目をむけさせようとしている。
残り少ない時間に未来を思い起こさせ、心身共に傷付いた薫を僅かにでも癒そうとしてくれている日向を思うと、常に持ち続けていた悲壮感を手放すことが日向への恩返しのように思えた。
「自分は明日にでも出撃命令が出ても笑って行けます。
だって、こんなに楽しくて幸せな時を頂けたんですから。
もしも、自分に未来があるのだとしたら、今の日向大佐の言葉を自分は忘れません。
自分ばかりが不幸だと信じて疑わなかったけれど、日向大佐も空襲でご家族や身内の方々を亡くされて いて。でも、それでも自分なんかのことを心から案じてくれて。
自分は今日、ここで誓います。過去に足を取られず前を向いて歩くことを」
その言葉に振り返った日向の視線の先にいたのは、今まで見たことのない弾けるような笑顔の薫だった。
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