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海蛍 82
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アランと共にここへやって来た時は、まさに着の身着のままだった。
あるのは傷付いた身体と、日向を失い空っぽになった心だけだった。
何もかもを失い、自分はどこまで流されて行くのかと、自分に起きることを他人事のように
さえ思っていた。
ジョージに背を焼かれた時、薫は初めて日向を恨んだ。
『なぜ、自分も連れて行ってはくれなかったのだ』と。
背を焼かれることが辛かったのではない。
自分が生きていること、ただそれだけのことを許してくれない人がいる事実に絶望したのだ。
色々なことがあって……
四季の如く、自分の生き様も目まぐるしく変化し続けた。
やっと自分の居場所を得られた。心から笑える時を迎えた。
朽ち果てるまでこの大地で生きようと心に決めた。
しかし、日向の思いは脈々と生き続けていて今、薫を日本へ連れ帰ろうとしている。
旅立ちの手には大きな鞄。
中には着替えや薫の好物となったヘレンの手作りクッキーや、アンナ自慢のジャムが
たくさん入っている。
そして、胸ではアランが修理してくれた日向の万年筆が、薫の鼓動を受け止めている。
「そろそろ行きましょう、橋本様」
笹本は出会ってから、ずっと薫に敬語を使い続けた。
小作人の息子に、帝大法学部卒業の弁護士がこのような態度は不相応だと言ったが、
笹本は態度を改めることはなかった。
「あなたは私の最初の依頼人であり、親友でもある日向の伴侶ですからね」
自分と日向のことを笹本は知っているのだろう。
それでも笹本は不快な様子も見せることなく、薫に敬意を払い続けた。
日向の存在と思いは、今もなお薫を護り続けてくれている。
薫が使っていたライナスの部屋。立ち止まって黙って見つめる。
あのベッドに突っ伏して声を殺して、どれだけ泣いただろうか。
『私は自分の居場所へ帰ります』
そう心で呟きながら、薫は深く一礼した。
ギシギシと足の動きに合わせて鳴る、古い木造の階段。
毎日、掃き清め手で拭き掃除をした。
思いを込めて、手摺を強く掴んだ。
降りてすぐの右手側扉がリビング。
アランと深夜までカルテ整理をしたり、勉強を見てもらった。
薄くなったコーヒーの味が、薫には思い出の味になった。
壁にはめ込まれた暖炉。そこにある火掻き棒でジョージたち荒くれ者に背を焼かれた。
痛みより、熱さより、自分が生きていることが悔しくて切なかった。
自分を医学校へ行かせようと、町の女達が入れ替わり立ち代わり来てくれた。
『毎日が楽しくて、生きている、ただ、それだけのことがお祭りのようでした』
と、薫は一礼した。
更に先に行くと左手には診察室。
初めての患者になったクロエ。
クロエを救うおうと、目の前でヘレンがジョージの足を撃ち抜いた時は驚き、言葉さえ出なかった。
大怪我をした大男を何度も飛ばされながらもしがみ付き、アランが治療をした。
薬代が払えないと、おばあさんがたくさんの卵を持ってきてくれてアランと何日も卵料理を食べ続けた。
痩せたアランの身体の触診に胸が痛み続けた。
全てが大切な思い出となった。
『ありがとうございました』
薫は言葉を声にして、頭を深く下げた。
床に涙の痕がひとつ、ふたつ……
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