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海蛍 84
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鞄ひとつ握りしめ、終戦を迎えた東京へ薫は降り立った。
田舎で生まれ育ち、軍港のある地方で入隊し出兵した薫にとって初めての東京の姿は鮮烈だった。
アランと共に過ごした戦勝国の田舎町とは異なり、多くの人々が目を血走らせ明日だけを見つめ
犇めいている。その活気に気圧されそうになる。
戦争に負けても、空襲で焼け出されても、この国の民は生きるために貪欲だった。
日向と共に生まれたこの国に戻り、日向の意思により今日からひとりで生きていく。
薫は手にした鞄の持ち手をグッと握りしめる。
様々な手続きが済むまで薫は笹本の自宅で滞在することとなり、ひとり身の笹本の住む
二間の小さな借家に、薫は転がりこんだ。
「ちょっ、ちょっと、待ってください!
確かに依頼者の意思を尊重することは、弁護士の基本ではありますが……」
諸手続きに奔走し数日が経った日の夜。
薫の言葉に笹本は思わず裏返るような声を出した。
笹本は東京に戻るとすぐに、戦死公報の出ていた薫の戸籍を復活させた。
弁護士の介入で戸籍はすぐに復活できた。
戸籍さえ整えば、これからすべき諸手続きは円滑に進む。
薫を日向姓にして、日向の残した資産を薫に渡るように、そして、薫が望む医科大学へ
進学できるように支援を行うなど、笹本は東京での仕事の段取りを早々に決めていた。
が、この夜、薫が口にした希望は、笹本の想像を超えるものであり、冷静なはずの笹本は
思わず上ずった声を出してしまったのだ。
「えぇ。それが私の希望です。
日向艦長が生きておられたら……
あの方はきっとご自分のためにこの資産は使うことはなかったはずですから」
薫はそう言うと笑みを浮かべた。
「確かに日向は金や物に執着するような人間ではありませんでした。
だからこそ、あなたにこれだけのものを残した。
でも、それは戦後の荒廃したこの国で、あなたが少しでも生きやすくしたいが故の日向の
思いだったはず。それを……」
薫は日向の残した土地を含む動産・不動産のすべてを売却し、その金の殆どを
アランを通して自分を育んでくれたあの田舎町に寄付すると、想いを口にしたのだ。
「日向艦長は私利私欲で物事を考える方ではありませんでした。
私を助けてくれたあの町の人たちも同様でした。
だからこそ、私に医科大へ進めるほどの知識や教養を惜しむことなく与えてくれました。
地場産業もない貧困と共に暮らす人々が、敵国だった私に生活費を切り詰めてまでして
医学を学ばせてくれようと動いてもくれました。
あの町の人々が世に出れば、きっとみんなは争うこともなく日向艦長が願っていた世界が
生まれるはずなんです」
「しかし!戦後のどさくさで地価は日々天井知らずに高騰し続けていることは、
あなたもおわかりでしょう?
日向があなたへ残した総資産は現時点で田舎の小さな村の年間予算にも匹敵する
金額になる訳で……」
「そんな大切なお金だから、私個人が私利私欲でどうこうしようなんて考えては
いけないと思ったんです。
大丈夫、私には日向艦長が身を挺してまで護ってくださったこの身体があります。
日本へ戻る道しるべを作ってくださっただけで、私は満足です。
敗戦で何もかもを失った他の遺族と共に、私も身体一つで立ち上がり生きていきます」
薫の強い意志に笹本はそれ以上の反論をすることはなかった。
煩雑な手続きを経て裁判所から薫が橋本から日向姓に変更されたと通知が来た。
日向の思いの詰まったその書類を薫は胸に抱く。
礼を言うべき日向がそこにいなかったことが、ただただ悔しかった。
その夜、笹本はどこからか日本酒を手に入れ帰宅した。
「日向薫君の前途に幸多いことを、心から祈ります」
そう言いながら、ふたりは酒を汲み交わした。
笹本、薫、その横には主のない座布団と盃に並々と注がれた酒。
笹本の心遣いである祝いの席。
と、その時だった。
『高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出潮(いでしお)の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はやすみのえに 着きにけり
はやすみのえに 着きにけり
四海(しかい)波静かにて 国も治まる時つ風
枝を鳴らさぬ 御代なれや
逢ひに相生の松こそ めでたかりけれ
げにや仰ぎても ことも愚かや
かかる世に住める 民とて豊かなる
君の恵みぞ ありがたき
君の恵みぞ ありがたき』
笹本が背筋を伸ばし、瞳を閉じて厳かに謡い始めた。
薫の胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
そう、笹本は日向と薫の想いを知るただ一人の理解者として、この時をふたりの祝言としたのだ。
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