アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
海蛍 88
-
日の暮れた駅で笹本がお茶と握り飯を買い薫に手渡す。
戦後の混乱の中、三等車切符をやっとの思いで買えた薫は頭を深く下げながらも、
僅かに困惑した表情をした。
すし詰め状態のまま京都まで行くというのに、握り飯など食べられるはずもない。
そんな薫の様子を見ながら
「むこうに着けばもう、息つく暇もないでしょう。
せめて今夜ぐらいは、夜景でも見ながら日向とこれからのことを語りあってくれれば」
と、笹本が言った。
その言葉の意図がわからず薫は小首を傾げたが、直ぐに胸ポケットの切符を取りだしそれを見た。
手の中には自分が買ったはずの三等車の切符ではなく二等車の切符。
『薫さん、買った切符を見せてもらえませんか?』
情勢不安な折、偽の切符が横行しているから確かめたいと、笹本が薫が買った切符を半日ほど
預かったことがあった。笹本はそれを二等車乗車切符に自腹で変更をしていたのだ。
「右手側に太平洋が続いてます。日向が薫さんを見守っていると思って……」
笹本の言葉はそこで途切れた。
発車を告げるベル音がけたたましくホームに鳴り響く。
自分で決めた旅立ちのはずなのに、笹本の優しさに思わず足が固まる。
「さぁ、薫さん。あなたを止める者は誰もいないんです。
思うまま、あなたの魂が求めるままに生きて。
それが日向が自らの命と引き換えにしても願ったことなんですから」
そう言いながら笹本は薫の背を押すと、荷物と共に列車に押し込めた。
自分を押し込む笹本の手が震えていたのを、薫は背中で感じた。
動き始めた列車の窓に顔をつけ薫は
「笹本さん、笹本さんっ。ありがとうございましたぁ!!」
と叫ぶ。そんな薫の姿に姿勢を正して立っていた笹本が薫を追うようにホームを駆けだす。
「…れ、…が…る!」
何かを叫びながら笹本は全速力で走る。列車の轟音の中、薫は耳を澄ませ笹本の声を拾おうとする。
「頑張れ!日向薫!!」
汽笛の中に薫は確かに笹本の声を聴いた。
列車は薫の夢に近づくごとに、笹本の姿を小さくし、やがてその姿を消し去った。
三等車は混みあい怒号が飛ぶような有様だったが、薫の二等車は裕福層が乗る車両で座席に
使われる素材から違っていた。
場違いな雰囲気に一瞬たじろぐが、薫は切符に記された指定の席を探し、そこへ座った。
所々に空席すらある。
薫の隣に誰かが座ることはなく、薫は何も考えず、日向や多くの仲間の命を飲み込んだ
真っ暗な太平洋を車内に入りこむ潮の香で感じていた。
塩味のきいたおにぎりを頬張る。
何度食べても米の飯を食べられることは幸せで美味いと思っていたが、笹本と離れひとりで食べる
飯がこんなにも味気ないものなのかと、薫は口にした飯を茶で腹に流し込んだ。
ふと、日向と温泉に出向いた日のことを思いだした。
「日向艦長、ここにおられるんですよね?
見えないけれど私にはわかります。
あなたが私をひとりになんてするはずがありませんから」
隣り合って列車に座って旅をした記憶が、薫の身体を熱くする。
『少し眠るといい。さぁ、俺の肩に……』
腹が満たされ睡魔がやってきた薫の耳元で聞こえたのは、確かに日向の声だった。
日向が既に死んでいることはわかっていた。
しかし、幻覚でも幻聴でも幽霊であっても薫には嬉しさしかなかった。
薫は隣の日向の肩に頭を預けた。
列車の振動と音が薫を深く深く眠らせる。
闇の中、列車は新天地へと向かう。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
88 / 200