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海蛍 95
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午前10時の発表からすでに2時間を経過しているにもかかわらず、薫は戻らない。
ミツは仏壇に今朝から8回目、蝋燭と線香を灯し手を合わせた。
「結果なんてどうでもいいから。橋本さんを無事にここへ……」
その願いは涙声になっていた。
「ただいま戻りました」
扉の向こうから薫の声がした。
ミツは慌てて立ち上がると、思い切り扉を開ける。
そこには泣いていたであろう目を赤くした薫が立っていた。
ミツはすぐに察して薫を抱きしめた。
「よく帰って来てくれた。ありがとう、ありがとう。
若いんだし、また一から頑張ればそれでいい」
絶望しながらも、薫が自分のもとへ戻ってきてくれたことをミツは喜んだ。
「これ、お仏壇に供えてください」
薫はミツに包をひとつ手渡した。
見ればそれは地元で有名な団子屋のものだった。
「今まで本当にお世話になりました。ありがとうございます。無事に合格していました。
一緒にお祝いしたくて、ちょっと遠いけど美味しいって評判の団子屋さんまで買いに行ってました」
深く頭を下げる薫にミツは腰を抜かして座り込んでしまった。
そして、座ったままミツは大きな声で泣きだした。
多くの者に助けられながら、夢に向かって踏み出した一歩だった。
朝5時に起きて予習復習を済ませ、他の生徒よりも早く大学へ行くと病院の下働きを始める。
カルテや資料の整理、検査技師の助手、薬品を薬品庫から出し入れしたり、
教授の部屋の掃除まで薫は率先してどんな仕事もこなしていった。
そこには重労働でありながらも、教科書では学べない生きた医学と学問があった。
昼休みも声をかけられれば、躊躇わず『すぐ行きます!』と動く薫は、どこでも重宝された。
結局、薫は大学内では通名として『橋本』を名乗ることにした。
まだまだ、日向の足元にも及ばない自分。
いつか堂々と『日向』を名乗るを日迎えられるようにと日々、頑張ることを
心に誓った。詳細は問われぬまま、大学側もそれを認め公式の書類には
『日向』を記すが、それ以外は『橋本薫』であることを、認めてくれた。
この時代であっても、医学部に入ることのできる学力と財力を持つ子弟は世の中にはまだ少なく、
薫のような海軍遺族枠で入った者と裕福な者は、自然に別のグループとして学内で
行動するようになっていた。
どんな時代になっても、身分や金で上下関係が生まれるのだと薫は思いながらも
日々、働きながら必死に学んだ。
夕暮れ、教室の掃除をしていた時だった。
同期の裕福層数人の男子学生が雑談し騒ぎながら、室内に入って来た。
床の雑巾がけをしている薫の前に、その数人が立ちはだかる。
「お前、海軍の恥ずべき生き残りだそうだな」
薫の手にした雑巾の前に立った男の靴が、薫の雑巾を踏んだ。
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