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56.(side.冴木)
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腕の中で、すやすやと穏やかに眠る綺羅をぼんやり見つめる。
「…………。」
ゆっくりとその柔らかい髪に指を通せば、甘えるようにすり寄ってくる。
それだけで、幸せで。
胸の奥から、愛おしい気持ちが湧き上がってくる。
綺羅が一度家を飛び出したあの日から、こうやって、腕の中に眠りにつく綺羅を抱きしめていないと、ひどく不安になる。
逆に今は、触れ合う指から伝わる、綺羅の存在に、とてつもなく安心していた。
この気持ちに、名前をつけることを戸惑っていたことが、信じられないほど明らかに、俺は綺羅に、恋をしていた。
つい、さっき。
最近ずっと、どこか不安そうだった瞳が晴れたことに安心していると。
『いつも、ぼくばかり沢山もらっていて、ごめんなさい』
綺羅は、ノートにそんなことを書いた。
綺羅は、全然、わかっていないと思う。
俺が、どれだけ綺羅のことが好きで、どれだけその存在に、救われているのか。
どういえば、伝わるだろうかと思考を巡らせたとき。
『だから、ぼくも、いつものお返しに、なにか"ごほうび"あげます』
そんな文字が、視界に飛び込んできた。
『ぼくにできることなんて、限られているけれど、でも、ぼくにできることなら、何でもします』
そう書いて、俺の目を覗き込んでくる綺羅の瞳は、真剣そのもので。
一生懸命、綺羅なりに、"愛"を伝えようとしてくれているのだと、わかって。
胸があつくなった。
好きで好きで、しょうがない。
綺羅の全てが、"すき"なんて言葉では表せないほどに、愛おしかった。
綺羅の手から、ノートとペンを受け取って、書きだす。
『じゃあ、"先生"って呼ぶのと、敬語、やめてくれ。
名前で呼んでほしい』
俺の名前を、綺羅は知っているだろうか。
……多分、知らないだろうな。
"冴木 充"ーーーさえき みつる。
それが、俺の名前。
"満たされて、満たすことができるような、そんな素敵なひとと、出逢えますように。出逢って、つねに満たされた、幸せな人になりますように。って、つけたのよ"
昔、名前の由来を尋ねた俺に、母親は穏やかにそう告げた。
なんだかそれは昔から、妙に心に残っていて。
俺はあまり人に名前を呼ばせなかった。
けれど、俺はいま、心の底から、この名前を"綺羅に"呼んでほしいと思う。
この名前をささげる相手は、綺羅であってほしい。
綺羅は、"そんなことでいいのか"とでもいいたげに、僅かに首を傾けて、ぱちぱちと目を瞬かせている。
それをいいことに、俺はもう1つ、願いを書いた。
『あと、声、出せるようになったら、一番に俺の名前を、呼んでほしい』
それは、未来の約束。
ずっとそばにいる。
そばにいて、綺羅を幸せにする。
"俺が"綺羅を、守りたい。
心の底から、そう願っている。嘘じゃない。
願っているけれど、いつか、綺羅が離れていってしまいそうで、こわいんだ。
綺羅の新しい不安は、可能性の広がりを表していて。
前まで、まるで自分とは関係ないみたいに、周りをみていた綺羅は、その周りの中に、自分を溶け込ませることが、できるようになった。
その変化を、嬉しく思うし、同時に寂しくも思う、
きっと、綺羅の世界は、どんどん広がっていくんだろう。
その広い世界のなかで、いつまで自分はこの地位で居続けられるんだろうか。
そんなことを、つい、考えてしまう。
こんなにも、ちっぽけなんだ、俺は。
綺羅は、そんなこと、夢にも思っていないだろうけど。
だから、姑息にも、先のことを約束した。
少しでも、確実にしたくて、口で言ってもいいのに、ノートに書き出した。
綺羅は、このずるさになんて、気付かないんだろうな。
俺のうしろめたさとは裏腹に、綺羅は、とてもとても、綺麗に笑って、頷いた。
嬉しそうな、幸せそうな、笑顔で。
するりと、眠っている綺羅の喉に手を滑らせる。
なめらかで、白くて、傷ひとつない綺麗な喉は、けれど人前で音を発することができない。
あんなにも透明で、人に届けるために存在するような、うつくしい歌声が、ひとに届けられることも、今は、ない。
いつか、その声が、俺の名前を呼ぶのを、聞くことはできるのだろうか。
もし本当に、そんな日がきて。
さっきの約束が果たされたとしたら、柄にもなく、泣いてしまうかもしれない。
そんなことを考えながら、そっと目を閉じた。
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