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頼朝①兄の日々
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いつの間にやら、弟が三人増えていた。
今若、乙若、牛若。
幾つかも、姿形も知らぬ。
常盤とはたれぞ。
腹立たしい。
吾は源頼朝。
河内源氏の一員にして源義朝の三男に生まれた。
幼名は鬼武者。
鬼武丸とも呼ばれた。
母は尾張国熱田(現・愛知県名古屋市熱田区)の熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘。
天皇の系譜と神官の系譜が結びつき、吾という存在を紡ぎ出したのだった。
父・義朝は保元の乱で後白河天皇側で戦い、平清盛らと共に戦勝したのだが、一族には対手たる崇徳上皇側についていた者もいて、父の父・為義その人がまさにそれだった。
父は祖父の助命を、自身の戦功に代えて願ったが許されず、おのが父をおのが手で斬首せねばならなかった。
その恩賞が左馬頭。
武家の要職とはいえ、両の手にべったりついた親殺しの血糊は拭いがたく、父はそのころから、あまり笑わなくなった。
保元三年(1158年)、齢十二にして、吾は統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)一月には右近衛将監に、二月には上西門院蔵人に補された。
上西門院殿上始においては徳大寺実定殿、平清盛殿等の殿上人が集う中で献盃役を務めたし、六月には二条天皇の蔵人にも補任されていた。
平氏全盛の世の中でも、義朝一門はそれなりの栄達をしていたのだ。
長兄の義平は無官。
次兄の朝長は吾より先に任官こそしていたが、吾のほうが昇進が早い。
兄たちとて愚昧ではないゆえ、この差にはやはり、生母の家格がものを言っているのだろう。
吾は生まれながらにして当家の後継者、嫡男として待遇されていたのである。
だがその年の暮れ、一族は思わぬ出来事に巻き込まれた。
平治の乱である。
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