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父が語る②
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廃嫡再び
関東を平らげたことで、吾が一党は支配層の、より良き飼い子と目されるようになった。
時の皇(すめらぎ)や院政者側~この頃は鳥羽法皇が力を持っていた~に、
“野盗のごとき為義血族”
と扱われることのない吾は、仁平三年(1153年)には父の官職『検非違使』を超え、『下野守』に任じられていた。
南関東を大きく地盤としたことで、都でも名だたる武者としての扱いを得られるようになったのだ。
失策と暴挙の繰り返しにより皇側の信用のを失墜していた父は、生き残るすべとして、藤原摂関家に接近をはかっており、ためにいっそう皇側の信頼を失っている折でもあり、吾の栄達はとてつもなく不快な流れと思し召したようだった。
(長兄たる吾の代わりとした)義賢が役立たぬからだ!
的な。
いかにも父らしい身勝手な言い分だ。
父はいきなり義賢までも廃嫡し、嫡子は新たに四男・頼賢とした。
それだけではない。
義賢同母弟である三男・義憲(別名・義広)までも、兄ともども京を追ったのだった。
義平勇猛
京を追われた義賢、義憲兄弟は、吾の先例に倣おうと思ったか、関東で身を立てようと行動に出たが、そのやりようはあまりに粗末だった。
吾や吾の長子・義平を頼ってくるならまだしもかわいげがある。
同じ父の、愚かな立ち回りに巻き込まれ、迷惑被り続けた者どうしなら、協調同調のしようもあろうに、そこはそれ、あの父の見込んだ者だけあって、あろうことか義賢らは、吾が京に在る間にと、急ぎ関東に下ったのだった。
大蔵合戦
関東関東と一口に言っても、南寄りなる相模一帯は、吾と吾が長男、齢十五の義平の支配がかっちり効いておる。
やむなく義賢は上野国多胡荘(現・群馬県高崎市旧吉井町地区)を本拠とし、武蔵国最大の武士団であり、留守所総検校職である秩父重隆の娘を娶り、“養君”となって武蔵国比企郡大蔵(現・埼玉県比企郡嵐山町)に館を構えたのだった。
だが秩父重隆は秩父重隆で、自身の不都合を抱えていた。
重隆は、甥・畠山重能とその父・重綱“の後妻”との間で、家督争いの真っ只中である上に、利根川を挟んで隣国の、新田氏や藤姓足利氏らと、抗争を繰り返す日々だったのである。
そんなこんなな日々の中、吾が一族絡みの新しい揉め事までをも、歓迎する重隆であろうはずもなかった。
しかも吾が京に戻る折に相模を任せていった伜・義平は、齢十五にして立派な戦上手に育っており、しかもである、この義平の乳母だった女性(にょしょう)こそが秩父重隆の父・重綱“の後妻”その人だったのである。
そしてそして、今まさに、重隆が戦っている新田、藤姓足利、畠山らもまた吾と、吾が長男、義平の側の勢力と結ぶ者たちなのだった。
地を脅かす者も、身内すらも、吾と息子の息のかかった者どもである。
義賢、義憲にはもとより勝ち目などなかったのである。
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