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清盛死後
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宗盛
治承五年(兼ネル養和元年。1181年)閏二月四日、六波羅入道こと平清盛が熱病にて逝った。
六十四才であった。
「ひたすら東国の平定につとめよ」
「頼朝の首を墓前に供えよ」
それらが遺言であったという。
義平と組み合い一歩も引かなかった嫡男・重盛既に亡く、次男・基盛も病んで逝き、好むと好まざると、望むと望まざるとに関わらず、平氏一門を引率する羽目となったのが宗盛だった。
だが、宗盛の嫡男は維盛。
あの日、富士川で、大敗を喫してしまった時、官軍~という名の平氏の軍~を率いていた男だ。
以仁王の令旨は国のあちこちで、火種となっている。
そんな中で平氏をまとめ、貴族をまとめ、国をまとめてゆくのは至難の業。
飢餓も続いていたし。
宗盛は深く憂鬱だった。
頼朝
清盛の死は、一時鎌倉殿をひどく沈ませた。
父の仇。
仇を討つために、ここまで頑張ってきたのだ。
むざむざ天寿を全うさせてしまった。
親不孝すぎる。
やりきれない思いで館を出ると、前庭で、あやつらが戯れていた。
剣の、稽古だろうか。
従者に打ち込ませ、己はひらりと身を避けるだけだ。
ひらり、ひらり。
ひらり、ひらり、ひらり。
避けるだけなら誰でもできよう。
癇に障る。
剣を抜く。
打ちかかってやる。
そっと近づく。
が、あの僧形の大男が気づいてさっと片膝ついた。
“弟”が気づき、やつも控えた。
仇敵が身罷ったのに、いとも楽しげだな。
なぜか嫌味が最初に口をついて出た。
意味が分からない、というように、“弟”は瞳しばたたく。
清盛が、身罷ったのだ。先の月。
熱病で、褥で。
こんな日々に、へらへらできるとは、さすがは下品(げぼん)の生まれだな。
背を向けた。
ここまで言わずとも良いものを。
吾はなんて底意地が悪いのだろう。
後悔にさいなまれながらも、吾はそのまま館に戻った。
謝りかたなど知らぬ。
鎌倉殿が去って後も、主はじっと控えたままだった。
よく見れば、泣いている。
私は佐藤兄弟に目配せした。
兄弟は察し、何も聞かずに去る。
もうたれも居りませぬ。
囁くと、主はそのまま両の手で顔を覆った。
仇ではあるが、幼き日、父であるかのように愛してもらった。
こうして敵対するさだめとも知らなんだ。
今はただただ懐かしく、切ない。
それでよいのです。
恩義は恩義。
仇討ちは仇討ち。
あなた様は兄上をお選びになった。
ここで嘆いても、あなた様の誓いは変わりますまい。
いまはただただお悼み参らせましょう。
南無阿弥陀仏。
かしづく私の前で、主は清い涙を流し続けたが、永遠に泣いていたわけではなかった。
戦いは道半ば。
そして鎌倉殿の前には、同族が立ちはだかっていた。
よりによって、源行家殿である。
敗北の達人
源行家殿は、主の御祖父・為義殿の十男であらせられる。
しばらく熊野新宮に住んでいたため新宮十郎とも称されたが、もともとの御名は義盛と申されたらしい。
源氏のような平氏のような御名だと思ったが、実際源氏の逸る心と、平氏の交渉力をお持ちのようだった。
平治の乱では主らの父・源義朝殿にお味方して従軍、一敗地にまみれられた。
戦闘には敗れたものの、戦線離脱に成功、熊野に逃れ、その後約二十年間、同地で雌伏。
治承四年(1180年)、摂津源氏の源頼政殿に召し出され、山伏に扮し、以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達して回った。
この時期に、行家と改名したものらしい…
俺のところに現れた時は既に行家と名乗っていた。
鎌倉殿の所にも、義円の所にも、木曾にも、伊予にも出向いておる。
健脚だな。
瓶子片手に立ち寄ってくださった全成殿が主に語る。
私のところにはお立ち寄りになりませんでした。
それはたぶん、行家殿のせいではない。
そこもとがさきに鞍馬を出てしまったのであろう?
ちょっと咎めるように主を見る。
修行の日々が耐え難かったか?
そ…れ、はー…
曖昧に言の葉を濁す主に、私の脳裏にふっとよぎったのはたずさの面影。
主が愛しみ、私も愛した…
ずいぶん遠くまで来てしまった…
まあ義経とは付けも付けたり。
よい名と思うぞ。
儂も僧名以外、俗名も欲しい気もあるのじゃ。
おぬしが義経なら、儂はさしずめ義基か。
なれば乙若兄上は?
おう、残るは朝だけか?
基朝?
モトトモ兄上と?
響かねえ!!
全成殿カラカラ笑う。
義経が遠慮せえ。
私が朝をいただきましょう。
えっと、義朝。
それでは父上ではないか。
あ、そうか…
酒の席の戯れ言ではあったけれど、初めて兄弟が戯れあえた夜だったと思う。
主もとても楽しそうだったが。
お二人は全く知らなかった。
この日、義円殿は若きお命を散らしていたのである。
いまだ三十にもならぬ、二十七という若さだった。
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