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深海・・・・終
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いつもの席につけば、いつものビールがグラスに注がれる。
「忙しそうだな、大野」
肩をすくめて見せた大野の普段はきっちりと剃り上げた口周りは、このところの残業続きで無精髭に覆われていた。
カウンターの中の山根にもグラスをすすめ、ビールをつぐ。
確かにここのとこ、まともに酒も飲めていない。グラスを合わせて、大野は一気に冷たい琥珀を飲み干した。
2杯目を手酌しながら、山根に言う。
「そういや、そろそろなんじゃないか?」
「ああ、予定日は週末。3人目だから、あいつも俺も、だいぶ余裕だよ」
「たいしたもんだよな」
「ええ?」
「尊敬するよ。人の親ってだけでもう」
「ジジイかよ」
「相変わらず遊び回ってる奴もいるしな」
そういうと、大野はスマホを出し、動画を再生した。
濃すぎる青い空を背景に割れた笑い声が響き渡る。
「おっと、悪い、うるさいな」
他の客を気にして、大野は音を消し、それを山根に示す。
「ん?寺崎?」
海から上がったばかりの濡れた髪をかきあげながらなにかをカメラに向かって喚いている。
「何処にいるんだ?こいつ」
「セブ島。おとといからな」
「またかよ。羨ましいね。店と家族で旅行なんて全くだぜ」
「時間があればどっかいっちまうからなあ」
スマホの中で現地のマルシェを自撮りしながら歩く寺崎を愛しそうに大野が見つめる。
山根はその表情に気づかないふりで大野のグラスにビールを継ぎ足した。
何年か前に大野と寺崎二人で、セブ島を訪れた。マクタン島に1週間滞在し、ある日そこから船をチャーターして小さな離島に渡った。
夕方潮が満ちて船が迎えにくるまで、そこはまさに孤島となる。
透明な海が空を映し、まるで天空に浮かんでいるようだった。
ずっとここで暮らしたい……大野が思わず呟いた。
また来ようぜ、と寺崎が言った。
来年も!来年と言わず、また休みができたら!
結局痺れを切らして、寺崎は飲み仲間達と出かけて行った。
だけどこうして、毎日大野に動画を送ってくる。
動画の中で、大野を誘う。
『馬鹿だなお前!一緒に来ればよかったんだ』
『みろよ!最高だろ?この海!』
『大野〜今からでも来いよ』
ばーか、無理だろ……。
だけど……。
本当に、いつか、二人で遠い島に渡って暮らしたい……。
「うまかったよ。またな」
「ああ、またゆっくり。寺崎帰ってきたら」
大野を見送りがてらそろそろ暖簾をしまおうと、山根も外に出た。
「余裕とはいえ、大事にしろよ。カナちゃんによろしく」
「ああ、ありがとな」
「寺崎も週明けには帰るらしいから、お祝いに行くよ」
大野がタクシーを拾おうとした時、山根がラインの着信に気づいた。
「あれ?カナだ。なんだろう」
スマホを見て、弾かれたように大野を呼び止めた。
「大野!」
大野が振り返ると、山根が店の前に座り込むのが見えた。
山根の妻が知らせてきたのはネットニュースだった。
セブ島沖の離島に渡った日本人旅行客、不明のち死亡を確認。
観光中の寺崎洋文さん29歳……
寺崎は、満ち潮に流された子供を助けようとして、力尽きたのらしかった。
駆けつけたボートに子供を手渡し、自分はそのまま流されてしまった。
1日経って、寺崎は海底で見つかった。
◆
庭は祝福であふれていた。
そこここで笑いが咲き誇った。
寺崎の父親は、息子を亡くして以来憔悴しきって、事業さえも陽子に渡し、すっかり人前から遠ざかっていたが、今日はようやく笑顔を見せている。
「これからは、大野くんと陽子が寺崎を引き継いでいってくれる」
大野と陽子を拍手が包む。
山根と妻は少し離れた木陰からその様子を見ていた。
6歳の息子はすっかり宴に飽きてしまったようで上の兄弟とタブレットでゲームに興じていた。
「……大野さん、大丈夫なのかな……」
妻の呟きを山根は黙って聞いていた。
「あたし、今日初めて陽子さんに会ったのよね……」
妻が言わんとすることはわかった。
多分誰もが、陽子に亡くなった寺崎の面影を見ているだろう。
なぜなんだ……なぜなんだ大野。
「このままじゃ大野さん……ううん、陽子さんだって……」
言おうとして、山根を見上げ、そして妻は言葉を飲み込んだ。
ただ黙って、夫に寄り添った。
ゲームにさえ飽きた息子が大きな山根の身体にじゃれつき始めた。背中をよじのぼり、山根の顔を覗き込む。
「……パパなんで泣いてるの?」
もう大野は戻ってこないのだろう。
深海・・・・終
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