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薄荷煙草・・・・終
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--------------6
相手はアクセルとブレーキを踏み間違えたのらしい。
雨でスリップもあった。
車線を越えて突っ込んできた車を避けられなかった。
病院に運ばれた時、田嶋には意識がなかった。ひどい怪我だった。
貴戸も右脚を骨折していたが、左ハンドルだったため、助手席側が押し潰されてしまったのだ。
幸い、翌日には田嶋の意識は戻ったのだが、怪我の回復には手術を繰り返し、リハビリにも長い時間を要する為、バスケットでの大学進学の道は断たれた。
ああ、やっぱり俺は間違ったんだな、あの時。
田嶋は意外にも冷静だった。自分でも不思議だったのだが、自分のことより、貴戸のことが心配だった。
自分があんなことを言った、あんなことを言わせた後の事故だ。
先生の家に勝手に行ったのも自分だ。でも先生はきっと責任を感じてるんだろう、何も悪くないのに。
貴戸は病室に入ることはしなかったが、いつも廊下にいたのだという。
母親が言う。
「お父さんも、お母さんもね、もういいですって言ったのよ。ほんとに、真っ青な顔で毎日気の毒で。ご自分も怪我してらっしゃるのに」
「……かわいそうだな、先生。……俺が行かなきゃよかった」
「あんたのせいでもないのよ。悪いのは事故を起こした人なんだからね」
理性のある親でよかったと思う。誰も貴戸を責めないでほしい。
頼むから、誰も!
「今度、先生が来たら、言ってほしい」
『苦しまないでください。先生が苦しいと、俺も苦しいから』
田嶋が松葉杖で学校に戻ったのは、冬休みも明けてからだった。
体育館に行って、バスケ部に挨拶し、それから美術室へ言った。
1年の女生徒が一人で絵を描いていて、ヌッと現れた大男に怯えていた。
なんとなく、もう貴戸はいない気がしていた。
いないと思ったから来たのかもしれない。
「……貴戸先生は?」
「……貴戸先生は、おやすみです。……ずっと」
「そか……」
学校を辞めたわけではないらしい。よかった。
女生徒はテーブルに並べた石膏でできた円柱や球体を描いていた。
つまらなそうだなと思いながらも、少し離れて後ろに立った。
「見てていい?」
「え、ええ?」
「それ、難しいの?」
「難しいです。わたし今まで絵を描いたことなかったし」
黒い鉛筆で、ただ何度も何度も斜線を入れたり、消したりしながら、形ができていくのを、田嶋は黙って見ていた。
「あの……クロッキー会のモデルの人ですよね」
「え?」
「裏に、先輩たちの描いたクロッキーがあって……」
「ああ……」
貴戸の声や、指、くすぐる髪の毛が蘇る。
「おや……」
ドアの方から声がした。
見ると、杖をついた老人、曽我部が立っていた。
「田嶋くん、学校に来れるようになったんだね」
「……」
なぜ曽我部が?と驚く田嶋に、曽我部はゆっくりと近づいてきた。
「先生、こんにちわ」
ペコリと頭を下げる女生徒の隣に曽我部はにこやかに立って絵を覗き込む。
「うん、いいね。……ひとりでやってるの?」
「みんな今日はスケッチに出てます。あたしはこれがまだ出来なくて」
何か言いたげな田嶋に気づいて、曽我部が言った。
「……友祐の代打でね。週に2日ほど美術部を見てるんですよ」
「……先生は……」
「うん……家にいますよ……」
「どこか……」
言葉をつづけようとして、女生徒を気にし、口をつぐんだ。
曽我部もそれを汲んだようで、田嶋を促すように、教務室に入った。田嶋も従う、
部屋にはあのテレピン油の匂いが充満していた。
貴戸が描きかけていたキャンバスが何枚か置き去りにされていて、棚には、女生徒が言ったように、部員たちのクロッキー画などがが保管されていて、1枚、誰かが描いた田嶋がモデルの絵が壁に貼られていた。
その絵を見ていると曽我部の絞り出すような声がした。
「田嶋くんには、本当に申し訳ないことをしました。まだ、松葉杖は取れないんでしょう?」
「え?い、いえ……俺は……」
「進学は?」
「あ、ああ、今年はリハビリがあるので、浪人します……」
またバスケをやるかどうかはわからないが……時間が欲しかった。
「本当に……本当に……君の将来に影響を与えてしまって……なんと……」
苦しそうに言葉を詰まらせ、頭を下げ、曽我部は今にも倒れそうに弱々しかった。
「先生、そんなんじゃないですから!貴戸先生は何も悪くないんですから、そんなこと」
田嶋はカタカタと杖を震わせて立っている曽我部の体を力強く支えた。
そして、咄嗟に……一体なぜそんなことを口走ったのかわからないが、はっきりと曽我部に言った。
「……俺も、絵を描いてみたいです!」
言ったら、それが自分の気持ちのような気がした。
今日、自分はそれを貴戸に言いにきたのかもしれない。
「貴戸先生に絵を教えてもらいたいです」
曽我部は優しい目で田嶋を見ていた。そして「……そう」とだけ言った。
「……また、先生の家に行ってもいいですか?貴戸先生に会いに……」
田嶋の言葉に、曽我部は少し考えて、悲しそうな顔で首を横に振った。
涙が溢れた。
それまで堰き止めていたものが、一気に溢れ出たような、そんな涙が、ぼたぼたと床に落ちた。
それ以上、曽我部も田嶋も何も言わなかった。
美術室を出て、田嶋は不自由そうに松葉杖をつきながら、ゆっくりと階段をおりていった。
あの匂いが遠ざかって行く。
ポケットに、貴戸の机からこっそり持ち出した緑のタバコのパッケージが入っていた。
好きだ。
好きだ。
好きだ。
薄荷煙草・・・・終
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