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「わあおっ! わ、先生ぇ」
いきなり横で大声を出されたので驚く。押し入れから出ると、先生がいた。どうやら、足で編集者を押したらしい。あ、ていうか先生、煙草吸ってる。なんか不機嫌だ。まとっている空気が冷たい。
「うちの子になにしてるの」
「えー仲良くしてただけじゃないっすかあ」
「駄目」
そう言って先生は廊下に行き、腰を下ろして中庭を眺めた。
「て言うか先生。煙草は駄目ですって。医者に止められてるでしょうよ」
「……いいんだよ、今日ぐらいは」
もー。と言いながら、編集者はそれ以上咎めない。
「今日、って、なにかあったんですか」
訊いたら、先生はしばらく考えた。
「……………少々、不愉快なことが」
即座に。
先生のもとへ近寄り、お疲れ様ですと土下座するのは編集者だ。すかさず先生は、その頭をつかまえておさえつける。優しく微笑んではいるが、その目は氷点下だ。
「……………あのバカ記者が、」
静かに口を開く。
「適当なことばっかり言うから不愉快で仕方なかった」
「いやほんと、申し訳ないです。あいつら一応文芸なんですけどねー。広報だからまー、多少、誇張、と言うか、そのー」
「誰が芥川龍之介の再来だって?」
俺は思わず笑ってしまった。似てない。先生の文体も構成も活動も、何一つあの文豪とは似てない。
「やー、あいつらバカなんで」
「遺書残して死んでやろうかと思ったよ」
「それは困りますー」
「いくら売上が落ちてても『昔は大人気だった』なんて言われたら誰だってイラつくと思うけどなあ」
「言って聞かせますんでっていうか先生売上落ちてませんから今も絶好調ですから」
「………のど渇いた。お茶飲みたい」
先生は独り言のようにそう呟き、最後に後頭部にデコピンして手を離した。
「あ、すぐ持ってきますです」
頭をおさえながら編集者は走り去る。仲良いからこそのじゃれあい。いつもなに考えているのかわからない先生が、怒ったり、人をからかったり、甘えたりしているのが可笑しい。
「……田辺君となに話してたの」
俺に問いかける先生は、もうイラついてない。
「尾崎紅葉がないねっていう話を。あと押し入れに大正の新聞紙が貼ってあったんでそれを」
白紙の本については言わないでおく。また田辺さんがいじめられるのがオチだ。それにしても、どこで読んだんだろう。映像や漫画ではなかった気がする。文字。もしかしたら本じゃなくて、インターネットかもしれない。
「煙草吸うんですね」
「……事故った時に医者に止められたんだけどね」
灰をそのまま地面に落とす。勿体ない。折角綺麗な中庭なのに。真ん中に大きな木と、囲むように背の高い草木、大きな石。美しく見せているのは、そこかしこに生えている鮮やかな緑色の苔だ。もしかしてあまり手入れしていないんだろうか。それにしては雑草や枯れ枝もない。
ここから見ていると、先生が廊下とも縁側ともつかぬそこに座っているだけで、完成された世界に感じられた。足の不自由な彼のための箱庭。仰ぎ見ても小さな空。彼のためにある世界は、しかし同時に彼が外へ出ることを許さない。世界が崩壊してしまうから。
…………空想にも程がある。
疲れてんのかな。
「君も小説家になるならね、自分が商品になった時点で自分を手離すしかないよ。責任の取りようがないところで一人歩きするんだから」
「…………俺、作家にはならないんで」
「あ、そうなの?」
驚いたようにこちらを見た。その瞬間、完璧な空間は崩れる。滅びろ世界。
どうせ何度壊れたってまた構築されてしまう程度の。
……ああ嫌だな、これ。考えたくない。昔の記憶がよみがえりそうになる。田辺さんがそろそろ戻ってくる、のはわかっているが、先生に近付いた。その肩に頭を預ける。目をぎゅっと閉じる。
なにも言わずに撫でられた。
………あ、田辺さんの足音。
「あらやだお邪魔でした?」
引き戸を開けて、お盆にのったグラスを倒さないよう、慎重に彼が来る。少しの時間だったけど、まあいいや。触れた。触ってもらえた。
「違うよ。髪に埃がついてたから」
「あー。意外と埃っぽいですよねー、こっち」
若葉色に透き通る、氷の入った飲み物。手際よく灰皿も持ってきたらしい。あるんだ。
それからしばらく、文学の話で盛り上がった。
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