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【羅生門】1
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父親は厳格な人だった。
あまり記憶はない。怒鳴られたり、殴ったりされたこともある。勉強を教えてくれたり、旅行に連れてってくれたこともある。どれも断片的で、本当にあったのか疑ってしまうくらいの思い出だ。
母親は顔すら思い出せない。父とは違い、気遣い甘やかしてくれたのはなんとなくわかる。けれど、父からは何一つ守ってくれなかったことだけが鮮明に焼きついている。これがそもそもの女性不信のはじまりかもしれない。
父親は祖父母を嫌っていた。いや、憎んでいたといったほうが正しいかもしれない。幼い自分にはわからなかったが、祖母が妾のせいで、なにやら苦労したらしい。僕にとっては、年老いてなお、長唄や躍りに心得のある祖母も、いつも難しい本を読み、各地の友人と手紙をやり取りしている祖父も大好きだった。二人の周りの空気は、いつも穏やかで、上品だった。
父親の仕事は政治に携わるものだった。そのくらいしか知らない。出生を気にし、僕への教育も徹底した。幸い勉強は出来るほうだったので、学業の成績にとやかく言われることはなかったが、身体が弱いせいで寝込むことが多かった。その際は精神が弛んでいるからだと、熱に浮かされた幼い僕を正座させ、延々と叱り続けた。
親を憎む、という発想はなかった。あれはそういうものだから、と母は言っていたし、その母の言葉すら、軽薄だと聞き流した。どうでもいい存在だった。僕が信頼していたのは祖父母であり、愛情や安心をくれたのも彼らだった。その状況すら父は憎んでいたが、僕にはどうしようもなかった。
やがて祖父が亡くなり、祖母も他界すると、いよいよ僕はひとりになった。息苦しくなると、祖父の部屋に入り浸り本をひもとき、祖母に教えてもらった長唄をくちずさんだりもしたが、あの平穏な空気は返ってこなかった。
ある日、家に帰ると、僕が受け継いだはずの祖父母の形見はすべて捨てられていた。何回も読み聞かせてもらった本。彼らが大事にしていた懐中時計。その代わりに一人の女が家にいた。父はそれを僕の婚約者だと言った。
時代錯誤も甚だしい。これがどこぞのお嬢様か知らないが、僕は父と同じ道に進む気は毛頭ない。
べつにね、おまえ。相性ってものがあるのだから、無理にとは言わないのよ。ただおまえも、身の回りのことをしてくれる人がいないと、生活に困るでしょう。
母はやたら嬉しそうにしていた。この人も、不幸そうな顔をしておいて、根は父と同じなのだと気付いた。両親は女を僕にあてがっておいて、この家から出て都会へと逃げていった。
住み込みの家政婦がひとりに、知らない女。僕はますます家に帰りたくなくなり、友人とばかり過ごしていた。田辺はその頃からの付き合いだ。大昔はうちの使用人だった一族だと父は嫌っていたが、そんなものは僕には関係ない。兄弟の多い田辺は僕にも分け隔てなく接してくれ、僕も彼にだけは家の内情を打ち明けた。
既に婚約者がいることは周囲に知れ渡り、散々冷やかしを受けた。
――――なんかすげー気持ち悪いな、そんな家。
そう言って顔をしかめた彼は、僕にとっては救いだった。
女はやがて、意図的に避けている僕をなじるようになった。
すりよってきたかと思えば怒り、泣きわめいたかと思えば笑う。婚約者や女性としてではなく、一人の他人としてそれなりに丁重には扱うつもりでいたが、むこうはすっかり僕の女としているものだから、結局何一つ噛み合うことはなかった。
夜中に襲われかけたことは、何度もある。これが決定打で女を嫌いになった。
「どうして私では駄目なのですか」
「貴女が父の手先なら尚更」
「それとは関係なく貴方を愛してます」
「尚お応えすることが出来ません」
指一本、触れられたくない。考えるだけでも、ぞっとした。
そんな日々を過ごし、僕は家に帰ることすらしなくなった。この頃は明るくまっとうに生きている田辺に卑屈さを感じ、僕の方から遠ざけていた。勉強もまともにしなくなり、悪い先輩とばかり絡んでいたように思う。かなりふしだらな生活を送った。酒や煙草はやったが、女には一切関わらなかった。
いっぽう、女も病んでいった。たまに家に帰ると、ほうぼうが荒らされていた。家政婦の目を盗んでやるらしく、彼女が片付けるより先に、僕がこの惨状を見つけてしまうと、酷く怯えながら何度も謝るので、可哀想になり彼女にも暇を出した。
あれが僕が帰るのを待ち構えていることも、たびたびあった。もはや身なりにかまわず、髪は乱れ、肌は土色で、ただ目だけがぎらぎらと光っていた。包丁を持っていたので、僕をようやく殺す気になったのかと思ったが、そのまま台所へ行き、部屋の中で暴れた。
やがて、女は家を出ていくと正式に僕に告げた。それから数年して、どこかの金持ちと結婚したと、風の噂に聞いた。
そうしてまた、僕はひとりになった。
両親は僕の存在を黙殺する代わりに、この家と、働かなくても生きていけるくらいの金は寄越した。最初はそれで、もうなにもせず、誰とも関わらず、ただ死ぬのを待とうと思った。
けれどこの家で、何年もぼんやり過ごすうち、灰色の心に、なにかじんわりとしたものがこみあげてきた。書きたい。最初に物語を作ったのは、祖父母とだった。お話にすらなっていない、ただの文章の羅列だったけど。彼らがいなくなってから、現実から逃げたいときはノートに書いていた。あれはどうしたっけ。あの女にいくつか破り捨てられた気がする。でも、あの頃の構想は荒んでいるから未練はない。いや、もう昔は振り返らない。今から、一から作ろう。これは、まるで遺書だ。
そうして、また数年。
出版社に投稿してみたところ、賞を獲った。田辺と、こんなかたちで再会するとは思わなかった。疎遠になったあとのことを話したら、泣かれた。あのとき、おまえをちゃんと見てやれてたらなぁ。避けていたのは僕だと告げても、彼はしきりに謝った。
僕はそこから作家として日銭を稼ぐようになり、たまに見ていた、あの女の悪夢も、薄れていった。
小説を書くたびに、僕は死んでいる心持ちになる。これが最期だと思えば、いつだって全力を出せた。もう二度と書くことのない世界。心の奥底のわだかまりを鋭いメスで切り開いて、あますところなくさらけだす。これが最期。これで最期。
それでも物語は希望を持つし、僕は次に書きたいものが出来てしまう。それが人間なのだと諦めてしまえば、なんだか人生のすべてが滑稽に思えた。
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