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従わなければ千代のことを全員にバラすと脅されて、後日僕は彼女と会うことになった。
週刊紙のいいネタにはなるだろうが、その場合千代にもこの女にもダメージがある。だからこの女が、外に言えるはずもない。わかっていて承諾したのは、本当に千代には申し訳ないと思っているからだった。したことは謝らない。時が戻っても僕は同じことをする確信がある。だけど、彼女の知らないところで懺悔するくらいは、してもいいとは思う。
夏の日差しが強い。待ち合わせの駅に女は車で現れた。女性をアピールするように真っ赤なワンピースを着ているのは、僕へのあてつけだろう。一目見て帰りたくなった。女と二人、逃げられない空間に閉じ込められるのは苦手だ。
これも罰なのだと言い聞かせて、助手席に乗る。どこへ行くのかは聞いていない。一日空けておくように、としか指示されていない。車は滑らかに走り出す。やがて高速に入った。
車内は延々と無言だ。というか、僕に喋る余裕がない。血の気がひいていくのが自分でよくわかる。吐きそう。横に女がいて、それのいいようにされている状況に死にたくなった。別に綺麗な景色でもないが、窓の外をひたすら眺めていた。
着いた先は、海の見えるコテージだった。空の青海のあを。白鳥はいない。ここにいるのは僕と彼女だ。
狭い空間から開放され、ひといきついた僕に、女は鞄から何かを取り出した。それは手紙の束だった。
「読んで」
テーブルに投げ出された、そのうちのひとつを見る。封筒には小さな文字。宛先は目の前の女性。差出人は千代だった。封は開けられており、手触りからしても、そう新しいものでないことがわかった。
「僕が見るものじゃない」
テーブルに戻す。二人の私信を何故僕が盗み見しなければいけないのか。千代が、彼女だけにむけて綴ったものを、暴くことはしてはいけない。
「読みなさい」
けれど、女は強く言った。
――――先日の台風で、お庭の紅葉の木の枝がぽっきり折れてしまいました。あれは賢人様のお祖父様が手ずから植えたものと聞いております。家政婦の鈴木さんと一緒に、なんとか直してあげられないかと、女二人で朝からうろうろして、結局は植木屋さんを呼びました。そうしたら、あっという間に直してくださいました。午前中をまるごと潰して、私達、なにをしていたんだろうねえと、ふがいなさに笑いました。
――――お二階を整理していたら、賢人様の昔の写真が出てきました。きっと奥様が大切に保管したのでしょう。可愛らしくって、眺めていたら一日が終わってしまいました。駄目ね。
――――早朝、賢人様が私のことを呼びました。千代さん、とあの方に名前を言われると、それだけで心が苦しいような嬉しいような、おかしな気持ちになるのです。まだ一週間も経ってないので、勿論慣れていないのでしょうが、そのぎこちない御様子が可愛らしくて、笑ってしまいそうになりました。家政婦の方がお熱を出して、今日はお休みとのことです。この家は広いので、掃除をするのが大変です。
――――情けないことに、昨日から寝込んでおります。ここへ来て一ヶ月、心労が溜まったのだろうと皆に言われました。今、鈴木さんが桃をむいてくれています。賢人様が買ってきてくだすったんですって。あの人、私には何も言わないのですけど。
――――学生の頃より読書家になりました。賢人様は難しいものをお読みになるので、私にはとても手が出せません。少しは彼に見合うような話が出来ればいいのですけど。精進します。
――――鈴蘭が咲きました。賢人様はしばらく御不在なので、私はこの広い家で、ひとりです。することもないので、勉強をしてみました。あまり理解できなくて、頭がくらくらします。余計、馬鹿になったんじゃないのかしら。不似合いなことをするものではないわね。
――――お買い物をしていたら、とても幸福そうな親子を見かけました。男の子の元気で可愛いこと。自分が病弱なのが嫌になります。いつか私も、子供を産めるようになれればいいのですけど。賢人様はいい父親になるかしら、なんて考えて、恥ずかしくなったので、やめておきます。
――――クローゼットに、白檀を入れています。彼がそうしているので。お洋服に、ほんのり甘い香りがつきます。賢人様がいないときでも、同じ匂いをまとっておけば、さみしさが和らぐ気がするのです。
――――ご心配なさらないで。実家にいた頃よりも、今の生活のほうが余程自由なんです。ひたすらベッドに安静になっているよりは。賢人様は学業もお忙しく、お友達もたくさんいらっしゃるようなので、あまりここに帰ってこないのは、仕方のないことと受け止めています。
――――夜中に咳がとまらないでいたら、賢人様が気遣ってくださいました。お疲れでしょうに、お薬を用意して、だいぶ良くなるまで、背中をさすってくれたのです。優しい人。
――――彼と夏祭りに行きました。とても楽しかったです。賢人様の浴衣姿は、
それ以上は、もう読めなかった。
消印の日付を見なくても、だいたい時期がわかる。紅葉の木の枝。足下に咲いた鈴蘭。これを本当に千代が書いたのか、疑ってしまう。最初の頃の話はいい。だけど、あとは彼女が暴れるようになってからの日付だ。
不在がちな僕を浮気しているのだと問い詰めて、何を言っても信じてはもらえず、家中を滅茶苦茶にしていた頃の。
書いてあるのは、だいたいが本当の話だ。嘘もある。けれど、圧倒的に書いていない事実のが多すぎる。
買い物に行くとでかけたっきり帰ってこなくて、たまたま家にいた僕がほうぼう探し回って、ようやく公園のベンチでぼんやりしている彼女を見つけたこと。その夜に僕の寝室へやってきたこと。
ほぼ毎回、僕が帰ってくるなり、女の気配がないか服も持ち物も漁り、部屋も荒らしたこと。なぜ妻になる自分より、ただの友人と長くいるのかと、批難していたこと。僕の顔を見れば、仕方ない、なんて微塵も我慢できていなかったこと。
散々暴れて叫んで泣きわめいて、過呼吸気味になって、深夜三時、僕が彼女に渡したのは睡眠薬だ。いつもより様子が酷いので、最悪は病院に連れていこうかと思った夜。
何故、書かなかったのか。どうして最後は、嘘を書いたのか。理由は明白だ。自分の異常な行動を恥じて隠したわけでもない。これが現実なのだと頭の中で改変するほど、気が狂っていたわけでもない。
読み手に心配をかけたくなかったからだ。
彼女自身も、これが現実でありたいと願ったのだろう。いつかは誤魔化さず、言葉を選ばず、なんのうしろめたさもなく書けるように。
けれどもう、どれだけ言葉を選んで誤魔化しても限界で、最後は嘘をついた。
だから終わったのだ。
僕と千代の関係も。
この手紙も。
僕と千代が、夏祭りに出掛けたことは一度もない。
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