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波乱の昼
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野々瀬たちとの会話も、先生が教室に入ってきたことで終わった。
席に戻り際、野々瀬が小さい声で「何かできることがあったら言ってね」と言ってくれたので曖昧に頷いておく。
これは僕の問題であって、あまり野々瀬に甘える訳にはいかないと思う。
だけど、あの人の前で僕はあの有り様だ。
自分でも情けないほどに緊張して、声も出なかった。
「……はぁ」
気がつけば、いつの間にやらもうお昼の休憩だ。
覚悟をやっぱり撤回したり、決め直したり、掛ける言葉を探したり、いっそ手紙で謝ろうかと思ったり。
色々なことを考えていたら授業なんてまったく頭に入ってこなかった。
お陰で自己紹介も上の空で、緊張せずに済んだから良かったのかもしれないけれど。
「なぁ槙、いい加減相手してくれよー」
僕の目の前で手をひらひら振る甲斐にぼんやりと視線を向けると、構ってもらえない犬のようなしょんぼりした顔をしている。
休憩のたびに話しかけてくれていたのは分かっていたけれど、考え事に必死な僕は適当な相槌を打つことしかできていなかった。
――……うん、ちょっと気分を変えよう。
今の僕は考えすぎてしまっている気がする。
お昼は甲斐と一緒に食べる約束をしていたし、この休憩時間だけでも他のことを考えて頭をリセットしよう。
「甲斐は、今日はパンを買いに行かなくていいの?」
ようやく僕がまともな返答をしたのが嬉しかったのか、甲斐がぱぁっと顔を明るくする。
分かりやすいなぁ、と小さく笑みがもれる。
「今日は槙と一緒に食おうと思ってたから、朝コンビニで買ってきた」
言いながら片手に持ったコンビニ袋を軽く掲げてみせる。
「そっか。じゃあどうしようか。教室で食べる?」
「いや、屋上行こうぜ」
そういえば昨日屋上で食べたって言ってたっけ。
昼寝してたくらいだから気持ちがいいんだろうなぁ。
「うん。僕も屋上に行ってみたい」
幸い今日もいい天気だ。
頷いて鞄からお弁当箱を取り出し、立ち上がる。
「さっ、ヤツが来る前に行こうぜ!」
ヤツというのは佐木先輩のことだろう。
僕の言ったこと、覚えていてくれたらいいんだけど。
一抹の不安を覚えながらも甲斐に手を引かれるままに教室を出る。
屋上は一般棟の一番上だから、階段をのぼっていけば着く。
途中でダークレッドのネクタイの2年生や、ミッドナイトブルーのネクタイの3年生とたくさんすれ違って思わず縮こまってしまう。
けど、甲斐は上級生を気にすることもなく、僕の手を取ったままさっさと階段をのぼっていく。
その堂々とした姿は素直にかっこいいと思う。
「ほい、着いたぜ」
甲斐が鉄扉を開ける。
ギイィという音とともに開いた扉の隙間から差し込む光の眩しさに目を細め、促されるままに屋上へ出る。
空が近い。
「すごい……きれい」
ふらふらとフェンスまで寄って眺めた景色に、感嘆の声が漏れた。
通学の時に坂高が高い位置に建っていることは分かっていたけれど、屋上から広がる景色は想像以上だった。
遠くには鳴海町の海が見え、キラキラと太陽の光を反射している。
そして反対側には、小さい頃に行ったことのある、雨坂市の自然公園の緑が色鮮やかに群集している。
その向こう側にあるオフィス街は夜になるとさぞきれいに輝くだろう。
「だろー? 早く槙に見せたかったんだ」
自慢げな甲斐の声を背に、僕はひたすら景色に見とれていた。
遠くに見える山はなんていう山だろう?
あ、雨坂遊園地の観覧車が回ってる。
海の向こうに小さく見える影は島だろうか、船だろうか?
「はいはい、見とれるのも分かるけど飯食おうなー」
「あっ」
5分ほどそうしていると、甲斐が僕の腰に手を回してひょいとフェンスから引き離す。
そして傍にある4人くらい座れるベンチに腰掛け、横に僕を座らせた。
なんだか、この景色は癖になりそうだ。
「甲斐、連れてきてくれてありがとう」
笑顔でお礼を言う僕に、甲斐は優しい笑顔を返してくれる。
「ま、ここに来れたって意味では、アイツに感謝しなくもないかな」
「そうだね」
佐木先輩が来なかったら、甲斐は教室を飛び出すことはなかったんだから。
顔を見合わせてクスクスと笑う。
それからしばらく、のんびりと話しながらお弁当を食べる。
甲斐とは友達になったものの、お互いのことをよく知らない。
家族のことや中学時代のこと、得意な教科や苦手な教科、話すことはたくさんあった。
「へー、槙んちって洋菓子屋なのか。行ってみたいけど帰りに寄るにはちっと遠いなぁ」
甲斐の家は坂高を挟んで僕の家と真逆の方向だ。
出身中学は坂上中学という名前だけど、坂高からはそれなりの距離があるらしい。
「ほら、坂中はあそこ」
甲斐の指差す先をたどると、坂高と雨坂市自然公園のちょうど真ん中辺りに学校らしきものが見えた。
電車だと2,3駅くらいかな? あそこが坂中なのか。
「甲斐の家は坂中の近所なの?」
「ああ。歩いて5分位だな。お陰で朝練は楽だったなー。あと、忘れモンしても昼に取りに行けたし」
懐かしむような顔をして甲斐が呟く。
「じゃあ、これからは忘れ物しないように気をつけないとね」
「う、うーん。そりゃあなかなか難しいミッションだな」
本気で困ったような甲斐の言い方に笑いがもれる。
……うん、甲斐と一緒に屋上に来てよかった。
甲斐のことも知れたし、景色も良くて、さっき悩んでいたことが頭の片隅まで飛んでいってくれた。
完全に忘れられないのが深刻な悩みの証拠だと暗に示していて、思い出すとちょっと憂鬱だけど。
「あれ、藤臣?」
ちょうどお弁当を食べ終わった頃、背後から甲斐へと声がかけられた。
「え? あっ、アサヤマ先輩、ちーっす」
甲斐が振り返り、ベンチから立って頭を下げている。
口にしてる挨拶は適当だけど、礼儀正しいなぁ。
先輩ってことはバスケ部の先輩なのかな?
とりあえず僕も頭だけでも下げておこうと立って振り返ると、きっちりと制服を着こなした3年生が立っていた。
身長は甲斐よりも低いくらいで、やや垂れ目がちでおっとりとした柔和な顔をしている。
あの人は男らしい顔立ちで雰囲気が優しげだけど、この先輩は顔立ちからして優しそうだ。
「えっと、こんにちは」
「こんにちは。そんなにかしこまらないで、座っていいよ。藤臣の横、いいかな?」
「はい、どうぞ」
顔立ち通りの優しい声に、僕たちはベンチにちょっと詰めて座り直す。
空いたスペースに腰を下ろし、アサヤマ先輩は甲斐と僕を交互に見つめた。
「君は、藤臣の友達?」
「あっ、はい。常磐 槙です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて自己紹介をする。
僕の自己紹介を聞いてアサヤマ先輩は「ん?」と呟く。
その顔を見ると顎に手を当てて考え込んでいる。
「あの……?」
「ああ、ごめんね。僕はアサヤマ。浅い山って書いて浅山。藤臣の部活の先輩。よろしくね」
恐る恐る問いかけると、浅山先輩はなんでもないというように軽く手を振って自己紹介してくれた。
やっぱりバスケ部の先輩だったのか。
「浅山先輩も昼飯食いに来たんすか?」
「いや、日なたぼっこでもしようかと思って。教室の中に篭ってると肩が凝っちゃうからね」
甲斐の問いかけにそう言って苦笑し、浅山先輩は軽く肩を回している。
3年生になると勉強も難しいだろうし、肩も凝るだろうな。
「ところでつかぬことを聞くけど、常磐君って時計屋のマキちゃん?」
「へ?」
唐突にそんなことを尋ねられ、間抜けな声がこぼれる。
時計屋のマキちゃん……。ちゃん付けが気になるけれど、時計屋のマキは僕だ。
「えっと、時計屋は僕の家なので、多分そうだと思います」
「やっぱりそうなんだ! 噂には聞いていたけど本物は初めて見るよ」
僕が肯定すると、浅山先輩は目を輝かせて身を乗り出してくる。
そんな希少動物みたいな扱いをされましても。
「槙って有名なんすか?」
浅山先輩の態度に興味をもったのか、甲斐が口を挟む。
いやいやいや。僕は有名にも希少生物にもなった覚えはないぞ。
甲斐に問われ、浅山先輩は少し悩みながら口を開く。
「そうだなぁ……うん。知ってる人は知ってるって感じかな? 鳴海町では結構名が知れてると思うけど」
「ええっ!?」
そんなの初耳だ。
自分のことは影が薄い人間と思っていたのに、一体なんで?
というか、浅山先輩はどうして鳴海町事情を知っているんだ?
「本人は知らないかもね。でも、時計屋のマキちゃんって有名だよ」
ぽかんと口を開けている僕を見て、浅山先輩が説明してくれる。
「あ、浅山先輩はどうして知って……?」
「ああ、僕も鳴海町に住んでるんだ。港中出身だから常磐君とは同じ中学だよね」
続けた疑問にもあっさりと答えてくれた。
なるほど、鳴海町に住んでるから鳴海町事情に詳しいのか。しかも中学の先輩だったとは。
「って、で、なんで僕が有名になんて……」
「ん、おいしい洋菓子店の笑顔の可愛い店員さんって」
「…………」
返す言葉が出てこない。
いつの間にそんな噂が……いや、あれ? 確か佐木先輩もそんなようなことを言ってたような……。
ってことは思ったより噂の範囲は広いんじゃないのかな?
うああ、そんなこと知りたくなかった……!
「あ。安心して。名が知れてるって言っても主におばサマ方の間でだから」
頭を抱える僕を宥めるように、浅山先輩の優しい声が降ってくる。
おばサマ方っていうとハルエさんとそのお友達あたりだろうか。
「じゃあ、浅山先輩も……?」
「うん、母から聞いていたんだ」
にっこり笑って告げられた事実に、力が抜ける。
よかった……。名が知れてるなんて言うからもっと広い範囲で有名になってるのかと思った……。
僕の、影が薄いなりのささやかで平和な生活は守られそうだ。
「じゃ、じゃあライバルはいないんだな!」
甲斐が目を輝かせている。
部活の先輩の前で変な発言は自重しようよ、甲斐。
「へえ、藤臣は常磐君が好きなのか?」
「えっ! あ、その。まぁ……」
ほら食いつかれた。
思わず半目で眺める僕の前で、甲斐は顔を赤くして頭をがりがり掻きながら頷いている。
そんな甲斐を見て浅山先輩はどこか含みのあるような笑みを浮かべる。
「そうなんだ。でも常磐君には……」
「リョウヘイ!」
浅山先輩がなにかを言いかけた時、屋上の扉の方からこっちへ声が飛んできた。
その声にビクッとしてお弁当箱を落っことしそうになってしまう。
というのもその声の相手が――……
「ああ、貴良」
そう、あの人だったからだ。
浅山先輩は振り返って手をひらひらと振っている。
……あの人は、佐木先輩だけじゃなく浅山先輩とも友達のようだ。
って、部活が一緒だから浅山先輩とは仲が良くて当然か。
「どうしたんだ? そんなところに立ってないでこっちに来いよ」
不思議そうな浅山先輩の言葉にそっと振り返ってみると、屋上に入ったところから動かずに浅山先輩を見ていた。
さらりとした黒髪が風で揺れている。
その表情は少し困っているようだ。
「っ!」
目が合った。
反射的に身体に力がこもる僕を見て、あの人は申し訳なさそうに視線を浅山先輩に戻す。
もしかして、僕に気を遣って傍に来ないでくれているんだろうか……?
「リョウヘイ、そろそろ教室に戻らないか。次の授業の担当、お前だろう」
「あ、そうだったっけ」
時計を見ると、お昼の休憩ももう残り少ない。
しかしこの人は、色んな人を迎えに来ているんだな。
多分この後は、佐木先輩を迎えに行くんだろうし……。
なんだか少し同情してしまう。
「浅山先輩、槙がなんすか?」
あの人が来る前に浅山先輩が言いかけた言葉が気になるのか、甲斐が立ち上がった浅山先輩に声をかけている。
浅山先輩はにっこりと笑い、僕たちに顔を寄せると内緒話のように小さい声で言った。
「……リョウちゃんも、マキちゃんにお熱だよ」
「ええっ!?」
甲斐と僕は同時に声を上げる。
リョウちゃんの名前をここで聞くことになるとは思ってなかった。
っていうか、リョウちゃん……?
「あの、浅山先輩のお名前って……」
「ん? リョウヘイ。涼しいにたいらで涼平。よろしくね、マキちゃん」
そう言ってぱちんとウィンクをし、浅山先輩はあの人の方へ歩いて行った。
え? え? え?
リョウちゃんって、浅山先輩のことだったの……!?
しかもお熱って……なに? なんなの? なんで!?
「あ、浅山先輩!?」
「先輩も槙を狙ってるんすか!?」
僕と甲斐の叫びを背に、浅山先輩は背を向けたまま片手を振って屋上の扉の向こうに姿を消した。
その後を追って姿を消すあの人の背を見送って、僕と甲斐は2人して呆然と立ち尽くしていた。
「……」
「……」
まさか、昨日の今日で、リョウちゃんに会うとは思ってもみなかった。
あの人がハルエさんの息子さん、なのか。
優しそうな雰囲気なんかは似ていないこともないような気がする。
僕が地味に鳴海町で名が知れてるとか、浅山先輩がリョウちゃんだとか、リョウちゃんが僕にお熱だとか、短時間に大変な情報が頭に流れこみすぎて処理が追いつかない。
追いつかなさすぎてあの人への対応を考える暇もなかったくらいだ。
教室よりも人が少ないから、謝るのに絶好のチャンスだったかもしれないのに。
「うあー……」
「マジかよー……」
僕の呻きと甲斐の呻きが同時に空中に消える。
もっともその意味合いは違うものなんだけれど。
「槙」
不意に、甲斐が真剣な顔をして僕の両肩をガシッと掴む。
あ、なんだろう。嫌な予感がする。
「浅山先輩に奪われる前に、お前のファーストキスを俺にくれ」
案の定だった。
「いやだよ! なんで奪われることが確定してるの!?」
少し乱暴に肩から手を引き剥がし、僕はややキレ気味に言葉を返す。
ただでさえ未解決事案がたまっているのに、これ以上悩みを増やさないで欲しい。
「だ、だってお前、先輩に迫られたら嫌とはいえないだろ!?」
甲斐もキレ気味に反論してくる。
なんで僕がキレられなきゃいけないんだ。理不尽だ。これが逆ギレというやつか。
「あのね甲斐、僕だって男なんだから、嫌なことは嫌だってちゃんと言うよ!」
「実力行使されたらどうすんだよ! 槙の身体じゃマトモに抵抗もできねーだろうが!」
「うぐ」
悔しいが反論できない。
言葉に詰まった僕の肩を、甲斐が改めて掴む。
「だから、俺がもらう」
「いーみーがー分からないよ!!」
寄せられた甲斐の顔を全力で押し返す。
甲斐のことは嫌いじゃない。友達として好きだ。
だからこんなことで嫌いになんてなりたくない。
……人に嫌いということは、苦手だ。
言われた人はきっとすごく傷つくから。
ためらう気持ちを無理やりねじ込んで、僕は怒鳴った。
「こ、こんなことする甲斐は、嫌い!」
「!!!」
甲斐が呆然とした顔で動きを止める。
そして、言葉の意味を理解したのか速やかに僕から離れた。
「嫌い……?」
「無理やり変なことしようとする甲斐は、き、嫌い」
身を守るようにぎゅっと自分の身体を抱きしめる。
精一杯の抵抗の証だ。
それを分かってくれたようで、甲斐は顔を歪めて天を仰いだ。
「……サイテーだ、俺」
「さ、最低です」
恐怖は感じていないけれど、びっくりしたせいか身体が震えている。
加えて声まで震えている。
それが更に甲斐の罪悪感を煽ったようで、甲斐は深々と頭を下げて謝ってきた。
「すまん! 俺また周りが見えなくなってた! 怖がらせてホンットに悪かった! 許してくれ!」
「……もうしない?」
「しません!」
念のための問いかけに、即座に答えが返ってきた。
……うん、ならいいや。
この放っておいたら土下座しかねない勢いで反省している甲斐なら、これからはそう簡単には暴走しないだろう。
しないよね?
「じゃあ、約束」
頭を下げたままの甲斐の手を取って、そっと小指同士を絡ませる。
こんな子供同士のするような約束がどこまで甲斐を抑えてくれるか分からない。
でも、僕にも安心できる確約が欲しい。
絡められた指をぼーっと眺めている甲斐の前で小指を勢いよく振り切る。
とりあえずはこれで一安心、ということにしておこう。
「嘘ついたら本当に嫌いになるからね?」
「あっ……ああ! もう二度としねーよ! 先輩からは俺が守ってやる!」
許されたことに感極まったという様子で、甲斐が力いっぱい抱きしめてきた。
痛い。物理的に痛い。
「か、甲斐。痛いよ」
「あ、わ、悪ぃ。……でも、マジだから。槙のことは俺が守る」
慌てて僕の身体を離し、真っ向から僕を見つめて宣言する。
なんだか、物語の中の騎士様みたいだ。
「う、うん。……よろしくね、甲斐」
できればよろしくするような事態にはなりたくない。
僕の内心など知らず、僕の言葉に甲斐は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「ああ! 約束する! 絶対守ってやるからな!」
……ちょっとだけどきっとしたのは、内緒にしておこう。
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