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いつからか、森山宗馬には深夜に街を徘徊する癖ができてきた。
生活しているアパートを出て、住宅街をとぼとぼ歩き、用水路に沿った道をひたすら行く。転々と並ぶ街灯には羽虫が群がり、所々に蚊柱が立っている。少し前まで虫など見なかったのに、どこから湧いてきたやら、彼らが堂々と人前に姿を見せる季節になった。
宗馬は蚊柱を1つ、避けもせず突っ切る。ふらふらと、ふらふらと。駅が近い。眼に映る光が増えてきた。
羽虫達は宗馬には目もくれず光の方へと飛んでいく。こんなにも世界は命に溢れているというのに、自分も彼らと同じように生きている価値を何処に見出せというのか。嗚呼、必死に生きている彼らには分かるまい。自分のこの果てし無い憂が。
『ねえ、もう別れようか』とあの男は言った。いつもと変わらない笑顔で、その美しく眩しい姿で、彼は言った。ずっと宗馬はその言葉を恐れていた。いつか関係に終わりがくることを知っていた。
眼に映る光が、増える、増える。いつからだろう、この光が徐々に徐々に自分を襲う悪魔のように見えてきたのは。ある時にはわけのわからない幾何形体に、ある時は街中に咲き乱れる花々に見えた。
通りに人が増える。夜中でも人が絶えることのない街。人が、人が、個が集まる。雑踏になる。群衆になる。1つ1つの個が、自分と同じような膨大で複雑な情報を持ち、その情報達が集まり、群衆となって自分の周りを犇(ひし)めいている。宗馬はその事態に今にも卒倒しそうだった。
『別れようか』。先刻の自分に告げられたあの言葉が、宗馬の脳内を幾度も反芻する。雑踏がその声を掻き消してくれるわけもなく、世界から乖離した自分の精神に宗馬の孤独感は更に大きなものになっていく。
脳が揺れる。耳鳴りがする。街明かりの悪魔が自分を見下ろす。それでも宗馬は、死に場所を探すかのようにただひたすらに歩いた。
西谷雅也。彼を愛していたような気がした。しかし今はただ悲しいだけ。ただ彼に依存しているだけの自分だった。こんなにも急に別れが来るだなんて思っていなかった。
別れには必ず大きな理由があるものと思っていたが、こんなにも何の前触れもなく訪れるものなのか。突然ではあったが、きっと何か理由があるのだろう。思い当たる節など有り過ぎてどれなのかわからない。その全てなのかも知れない。
明日にはまた元の関係に戻れるのではないかと、そう思えてならない。こうして歩いていればいつもの雅也に会えるのではないかと。
もう、30年生きてきた。明日死ぬ、明日死ぬ、そう思い続けて生きてきたというのにまだ生きている。雅也に何度生きろと言われたことだろう。彼が生きろと言ったから生きているに等しかった。今は本当に生きる意味などない。
否、雅也に生きろと言われたことはきっと生きている理由ではなかった。惰性で生きていた。きっとそうだろう。
10代の頃、両親が事故で死んだのも唐突だった。姉が失踪したのも、世話になった叔母が病気で死んだのも、唐突だった。大切なものはいつも唐突に去っていく。
関係を持てば一瞬でそれを自ら壊していった。思えば5年以上関係が続いたのは雅也が初めてだった。それでもやはりまた、壊してしまった。
大切なものを失う度に、関係を壊す度に身体にも心にも傷が増えた。身体に光るピアスの数が増えていった。
こんなにも悲しみを味わうために生まれてきたと言うのか。それならこの夜は明けなくていい。暁光など待っていない。
夜空を見上げると半月がこちらを見下げている。街明かりと月光が闇色の下に浮かぶ雲を薄明るく照らしている。月が横に並ぶ。幾つもの月が。月が。月が。眩い光を発し、皆一斉にこちらを見下げる。
ーーふと、月の中から1匹の蝶が現れた。
白く、小振りな蝶だった。深夜の街明かりの下で、その蝶は当たり前のように堂々と飛んでいた。ひらひら、ひらひらと目の前を飛ぶ蝶。雅也はそれを目で追う。
嗚呼、なんて綺麗な蝶なのだろう。何処から来て何処へ飛んでいくのだろう。
「……ふふ…………ふふふふっ……くく」
白い蝶のあまりの美しさに、自由さに、宗馬は笑った。馬鹿みたいな光景だ。たくさんの月。1匹の蝶。こんな深夜の街中に、薄汚れた街に、こんなにも美麗で幻想的な蝶が舞っているなんて。
宗馬は混濁する意識の中で、ただ、ただ、蝶を追って歩いた。
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