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「また一日中寝てたの?」
眼を覚ますと、枕元に黒髪で整った顔立ちをした男が座っていた。いつも笑顔で綺麗な姿勢をした小柄なその男は、同居人であり恋人の雅也だ。
宗馬は彼の質問には答えずに窓に眼をやった。カーテンは閉まっていたが、外が薄暗いことは何となくわかった。
「……今、何時」
「7時。僕は今帰ってきたところ」
「そう、おかえり」
雅也と宗馬は同居して2年になる。土日休みで昼間仕事をしている雅也は毎日規則正しい生活をしているが、不定期に仕事をしているフリーターの宗馬は休みの日は一日中寝ていることが多い。
宗馬の細い腕が布団から伸び、雅也の手を掴む。その腕を見て彼は眼を細めた。
「腕、噛んだの?」
質問された宗馬は自分のその左腕を見た。いくつも重なった線のような切り傷が治った跡の上に真新しい歯型が赤く付いていた。
「覚えて、ない」
「アムカ止めたってこういうことしてちゃ同じじゃない」
「知らね」
「もう……」
雅也が深いため息を吐くのを、宗馬は不思議そうに見る。他人の身体がどうなろうが関係ないことだろうに、何故彼はこんなことを言うのだろうか。いつも宗馬はそれが理解できなかった。
「こっち、来てよ」
宗馬の手が雅也の腕を引っ張る。一緒に布団の中に入って欲しかった。彼の温もりが恋しい。しかし彼はそうしようとはしなかった。
「待って。僕、まだ着替えてもいないし、ご飯も食べてないんだ」
「ちょっとだけ」
「待ってってば。宗馬はご飯食べたの?」
「……いや」
一日中寝ていただけの宗馬には、最後にいつ飯を食べたのか思い出すのも困難だった。そう言えば喉は乾いている気がする。
寝て、起きて、また寝るだけの一日だった。もしかしたらちゃんと水を飲んだのかもしれないし、便所にも行ったのかもしれないが、昼間の記憶はあまりにも曖昧で宗馬自身にもわからない。
宗馬の肩より長く伸びた髪を撫でる雅也。
「また何も食べてないの?駄目だよ、ちゃんと食べなきゃ」
「だってずっと寝てたし。お腹減ってねぇし」
「ちゃんと朝起きて、夜寝なきゃ」
「無理だよ」
自分の頭を撫でる雅也の手に手を重ねる宗馬。
「じゃあ俺は雅也が飯食うの待ってるから」
「宗馬は食べないの?」
「いらね」
宗馬の言葉に、雅也は少し哀しそうな顔で、そう、と短く返事をした。否、その表情は憐れみだろうか。諦めだろうか。嫌悪だったのかも知れない。彼は布団から離れ、シャワールームへと向かった。
宗馬は起き上がる気にもならず枕元のスマートフォンを見る。ロック画面にはSNSの通知が何件か表示されていた。バイト先からのものだろう。それを見る気にもならずスマートフォンを布団の上に放った。何故仕事以外の時間まで業務連絡を見なければならないのか。
ゴロリと身体を反対側に向けると、そちらの枕元にコピー用紙が何枚か無造作に置かれていた。その紙を自分が置いた記憶は無く、手にとってみると、それには何か絵のようなものが描いてあった。
「あ……? 何だこれ」
それは鉛筆で無闇に引いた線の集まりのようだったが、その中に何か具象的なものを感じさせた。人の眼か、顔か、手だろうか。口なのかも知れない。それとも、人ではないのか。
「…………蝶、か?」
蝶。それが一番しっくりくる気がした。数枚あるコピー用紙のどれを見ても同じような乱雑な線の集まりが描かれている。
これは自分が描いたものなのだろうか、と宗馬は眉を顰める。自分は時々絵を描くことがある。寝る前に描いていたのを忘れているだけかも知れない。床に転がっているBの鉛筆は確かに自分がカッターナイフで削ったものだ。雅也は絵なんて描かないし鉛筆も使わない。ならば自分はどうしてこんな矢鱈な絵を描いたのか。
自分はいつも、自分の思い通りにはならない。そう感じ始めたのはいつからだったか。
シャワールームから聴こえていた水音が止まり、しばらくすると雅也がそこから出てきた。Tシャツとジャージ姿の彼は、布団の上で未だに横になっている宗馬を一瞥し、何も言わずテーブルに置いていたスーパーで買ったらしい惣菜をビニル袋から出し始めた。
雅也の後ろ姿を暫し眺めてから、宗馬は漸く布団から起き上がる。喉が渇いた。足元をふらつかせながら下着姿のままで台所へと向かい、やかんに水を注ぎ、コンロに火をつける。
青い火を眺める。雅也はこちらには目を向けず、テレビをつけている。
「雅也、今日は飲み誘われなかったの?」
「誘われたよ。でも行かなかった」
「そっか」
彼と出会ってから、一緒に暮らし始めてから、何年になるだろうか。彼も自分も、基本的には相手に大して淡白だ。だからここまで一緒にやって来れたのだと思う。
これ以上踏み込まれたら、破綻する。ギリギリのところで雅也はいつも踏みとどまってくれる。だから自分も踏み込まない。それを彼がどう思っているかは知らないが、きっとこれでいいと宗馬は思っていた。
水が温まり、蒸気を出す音が徐々に大きくなる。
自分達はこれからどうなって行くのだろう。漠然と宗馬は考えた。雅也との関係。自分の将来。彼の将来。彼の家族。何もない自分。若い頃に出会った自分達。青い火をいくら見つめても何も見えては来ない。
「…………死にてぇなぁ……」
ふと、口から零れ落ちた言葉。お湯が沸いた音。火を消す宗馬の手。ーー宗馬の方に視線を向けた雅也。
「何で」
彼に問われ、宗馬は我に返り居間に座る彼を見下ろす。何故死にたいと言ったのか、と問われたことを理解するのに、宗馬には数秒の時間が必要だった。
「生きたい理由がないから」
そう答えを出すのはあまりにも簡単だった。
雅也は目を伏せ、またテレビに視線を戻した。
「……そっか」
きっと彼は何か言葉を返したかったのだろう。何か言葉を飲み込んだのが、宗馬にはわかった。
気にしてはいけない。宗馬はカップにお湯を注いだ。湯気が上る。上る。上る。
生きることは決して辛く悲しいことではない。しかし生きていると辛く悲しく、苦しい。ただ生きているだけで辛い。それが何故かと問われることが不思議に思えるほどに。ずっとずっと前から宗馬にとって生きていることは苦しいことだった。
白湯を一口、喉に流し込んだ。熱い塊が体に落ちて行く。生きている。まだ生きている。
歪む視界。宗馬の双眸から、雫が落ちる。落ちる。落ちる。涙は白湯の中に沈み、溶け合う。
「宗馬……」
立ち上がった雅也。理由も無く急に泣き始めた宗馬に近づき、彼の顔を両手で包む。自分の顔を下から覗き込んでくる雅也に、宗馬は嫌がるように首を振った。
彼の気を引きたくて泣いたわけではない。彼に憐れみの目を向けられたかったわけではない。勝手に溢れ出た涙を止めたくても、宗馬はその術を知らない。
「雅也、いい、気にすんな」
「いや、気にするよ。どうしたの」
「何でもねぇよ」
「何で泣いてるの」
「知らねぇよっ……」
赤い眼をした宗馬の細い身体を、雅也の腕が抱きしめる。そのゾッとするような温かさ。宗馬は理由も分からない恐怖を覚えた。
「やめて。雅也、やめて……」
「悲しまなくていいんだよ、宗馬。生きていて」
雅也を押しのけようとして壁に押し付けられる宗馬。痩せ過ぎた身体は小柄な彼に敵うことすらできない。
握られる手首。口付けを落される首筋。鎖骨の下にあるピアスを彼の指が撫でる。背中から腰にかけて、ゾクゾクとした感覚が流れる。昼間、たった一人、布団の中で。恐らく自分は彼の温もりを求めていたのだ。
「雅、也……」
宗馬は目の前の男の唇に自分の唇を重ねた。それに応えるように雅也が舌を口内に滑り込ませてくる。絡み合う舌。彼の舌を押し返して彼の口に自分の舌を侵入させると、そこにあるタンピアスに噛み付かれた。
ずるずると床に崩れ落ちる2人。唇を離し、宗馬の顔を見た雅也は、少し困ったように笑った。
「どうしたの、そんなに泣いて」
宗馬の涙は止まるばかりか次々に溢れ出している。鼓動が速い。哀しみも苦しみも痛みも怒りも、全て涙になっているようだ。もう30歳にもなって不安定過ぎる情緒が恥ずかしい。
「何でもない」
「そんなことないでしょ」
「わかんねぇもん……」
震える宗馬の声。その手が雅也のシャツを引っ張る。
「早く来て。抱いて」
「いつも荒れてる時に求めるよね」
雅也の指先が宗馬の耳のピアスに触れる。いくつあるのか直ぐにはわからないくらいの数のピアス。
宗馬は彼の尻をジャージの上から掴み、軽く揉んでから股間に手をやった。
「俺が荒れてると勃つよな」
「好きだからだよ」
そして雅也は、笑顔のまま宗馬の下着を脱がせた。
幾度もの性交は一体何のためのものだっただろう。繋がる度に宗馬が見てきたのは雅也だったのか、天井だったのか、床だったのか。身体は確かに相手を感じていたが、それ以外のものはどうだったのだろう。
雅也が自分を求めているのかも分からなかった。何故彼が自分を相手にしているのか。空っぽの自分から何を見出していたのか。宗馬は彼に快楽を与えながらも何もわかっていなかった。いつだって感情と理性と身体は乖離している。
もっと叩いて、噛んでという宗馬に雅也が応えることはない。普段は何でも応えてくれる彼が、宗馬を傷付けることだけは応えてくれない。
自傷跡が増える身体。毎度もう空けないと言いながら増えていくピアス。それは常に雅也を悲しませることを宗馬は知っている。それでも止められなかった。
壁に手をつき、膝立ちで後ろから突かれる宗馬。真後ろに雅也の息遣いを感じる。
「もっと、ねぇ、叩いてよ……雅也」
「…………宗馬っ……」
「お願い、ねぇ」
「駄目だよ」
雅也は裸の宗馬を突き上げながら、愛撫を続けた。痛みを与えることはできない。
宗馬は快感に溺れながら、まだ泣いていた。脳内が快感と激情で混乱する。理性なんてどこかに行っている。
「ああっ……うああぁっ……」
「くっ、イク……!」
宗馬は自分の中で雅也が果てたのを感じた。コンドームをした陰茎を引き抜かれ、自分の陰茎を彼に手で扱かれる。すると宗馬も直ぐにオーガズムに達した。
そのまま床に座り込む。一気に頭の中が冷えていく。感情の高ぶりがおさまってきた。やっと涙が止まり、雅也の方に振り返る。彼はコンドームを外しながらこちらを見て、微笑した。
「ねぇ、宗馬」
「…………何?」
「別れようか」
「は?」
落ち着いた頭の中に、雅也の言葉はあまりにストレートに響いた。急に別れを切り出された。それだけのこと。
雅也から今まで宗馬のことについて深く聞かれたことはなかった。過去のことも、今のことも。だから宗馬も自分からは何も尋ねなかった。
それでも雅也に堅実な両親と既婚の弟がいることは知っている。そんな彼が、同性の自分を恋人にして、ずっと一緒に暮らす。それは無理だろうと宗馬はわかっていた。
出来ることなら彼との将来を見たかった。ゲイであることを負い目にしたくはなかった。それは彼も同じだと思いたかった。
「別れようか」
もう一度、雅也はそう言った。いつも通りの笑顔で。
機械音のような耳鳴りがする。そう、分かっていたことだ。これが現実だ。何もかもを失って何も持っていない自分と、背負うものが大きい彼との決定的な違い。だから宗馬は応えた。
「うん」
何も問いただすことはできない。何も聞かないことは彼と自分の暗黙ルールだったから。
何もかも失って、破壊を繰り返して、懶惰(らんだ)の中で生き続けた結果。これが彼と自分の最後。自分に付き合いきれなった彼は何も悪くないのだ。
視界の端に白い蝶が舞った気がした。
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