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「みーちゃん、お待たせしましたっ」
「部屋に戻れ」
まるで待ち合わせでもしていたのかというように、全く悪気のない無邪気な笑顔で登場した七海をバッサリと突き返す。
昨日の夜は俺も話があったことで仕方ないなと許してしまったが、その油断があんな行為に繋がってしまった。
「はやっ!今来たばっかじゃないっすか。俺の話聞いてくださいよっ」
「お前の話はもう聞かない。俺はお前を甘やかしすぎた」
淡々とそう言ったら七海が目を丸くさせる。
拗ねた顔をされるのかと思ったが、満面の笑顔を向けられて面食らった。
「超分かりづらかったですけど、俺の事甘やかしてくれてたんですね」
「…い、意図があってそうしていたわけじゃない。ただお前が言っても聞かないから仕方なく許容していただけで、何も教師の枠を越えてという意味ではなく――」
「へー。なんか分かんないっすけど教師って大変ですねえ」
「誰のせいだと思っているっ」
他人事のように言われて、思わず声を荒げる。
やっぱりコイツは自分勝手なだけだ。
俺の都合も立場も考えず、ただ自分のしたいことを相手の気持ち考えず押し付ける。
最初から全部冷静になっていれば分かっていたはずだ。
神谷の言葉の方が俺にはよほど現実的で、なぜ今までこんなに七海に翻弄されてしまったんだ。
「それより体調どうですか?まだ具合悪い?」
顔を覗き込まれ、当たり前のように頬に手が伸ばされる。
熱い手のひらが肌を撫で指先が耳をなぞる。
ピクリと肩を震わせるとどこか優しげに目が細められ、あやすように耳を擽られた。
七海はいつもそうやって人の様子を見ながら、やたら耳を弄ってくる。
覚えのある感覚に居心地の悪さを感じ、言わなければならない言葉が喉に詰まる。
早く部屋に戻れと叱らなければ。
触るなとこの手を払わなければ。
もう二度とこんなことはするなと、俺を好きだと言うなと突き放さなければ。
そんな俺の気持ちなど全く知る由もない七海は、人の肩に手を置くとグイとベンチに座らせる。
「…おい、別に大丈夫だと――」
「まーまー、病人は座っといて下さいよ」
抗議しようとその顔を見上げたが、七海はいつも通り無邪気な笑顔で強引に俺をその場に押し止める。
「ね、みーちゃん。俺の話聞いてくれますか。考えたんです、全部うまく行く方法」
こいつの話に耳を傾けてはいけない。
七海の話を真面目に聞けば聞くほど、真っ直ぐにしか受け取れない俺はいつだって翻弄されてしまう。
「あれ、なんか難しい顔してますね。俺の進路の話なんですけどダメですか?」
「…は?進路?」
なんだいきなり。
何かと思えば進路相談か。
予想外の言葉にポカンとしてしまう。
変に疑ってしまってどこか肩透かしを食らったような気持ちになったが、生徒としての言葉ならもちろん突き放すことはしない。
むしろしっかりと腰を据えて聞いてやらねばならない。
「ああいや、すまない。聞いてやるから言ってみろ」
慌ててそう返したら、俺の言葉に七海はニッコリと人懐っこい笑顔を浮かべた。
「はい。じゃあとりあえずみーちゃんは寿退社してくださいね」
「……えーと」
聞き間違えだろうか。
俺は今コイツの進路の話を聞こうとしていたはずだ。
なぜ俺が退社をする話になる。
そもそも寿退社とは結婚をする都合上やむを得ず退職することであって、同性同士の結婚を禁止されている日本ではそんなことは不可能だ。
「あ、大丈夫です。俺がみーちゃんの意志は継ぎますから。ほら、俺を好きになるのは教師をやめる時だって言ったでしょう?」
「――は?…えっ?」
色々突っ込みどころが多すぎて呆気にとられてしまったが、言われて思い返してみれば確かにその台詞を言った覚えはある。
七海を突き放すために言った言葉だが、今それになんの関係がある。
「待て。唐突すぎて言っている意味が分からないんだが」
「あ、あと俺が卒業しても生徒なのは変わらないって言ったでしょう。でもこれならさすがにもう生徒じゃないですし」
俺の疑問には答えず七海は話を続ける。
確かにそう言って断ったこともある。
あれは七海に少し考えさせてほしいと言った時だったか。
「それからフザけた奴が嫌い、とも言ってたじゃないっすか。フザけてるかどうかって見えないから難しいんですけど、こうやって目標を形にすれば少しは信じて貰えるのかなーと」
ね?と七海は俺に同意を求めてくる。
どう反応すればいいのか分からず完全に混乱していたが、七海だけはしっかり何か分かっているようで、それから、それからと俺が今までに断った言葉の数々を払拭するように理由をつけていく。
七海は覚えていた。
適当に受け流してるんだろうと決めつけていた俺の数々の断りの言葉を、コイツはちゃんと覚えていた。
完全に俺を取り残してはいるが、その一つ一つを何か正当化するように述べる言葉に唖然としてしまう。
慌てて口を挟んだ。
「…ちょ、ちょっと待ってくれ。お前が何を言っているのか本気で分からない」
「え?だってみーちゃんが数学は楽しいって俺に教えてくれたんですよ。覚えてないっすか?」
至極当たり前のように言われて驚いたが、確かにそれも俺がいつだったか電話で教えてやったことだ。
だがそれがなんだ。
今の会話とコイツの進路に一体なんの関係がある。
もう何を言っているのかわけが分からず目を白黒させていたが、七海は全てを言い終えると一点の濁りも感じさせない表情で俺に笑いかける。
夜空を照らすような煌めく笑顔と、同時にその背に浮かぶ満天の星空にハッと目を奪われる。
どこか幻想的な光景だった。
「みーちゃん、俺教師を目指すことに決めました。数学の」
ハッキリとした七海の声が夜空に響く。
夢でも見ているような気持ちで、呆然と俺は七海の顔を見上げていた。
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