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「端的に言いますが、仕事を辞めるつもりならあなたを引き留めたいと思っています」
「…な、何言って」
神谷の言葉に驚く。
本題とは俺の辞職についての話か。
まさか教頭が余計なことを言ったのでは、と思ったが俺に対して読心術を使えるコイツに隠し通すほうが無理な話か。
「…べ、別に今すぐ辞めようなんて思っていない」
誤魔化すように酒を煽りながら一応悪あがきをしてみる。
横から神谷の強い視線をビリビリと感じる。
「もちろん責任感の強いあなたですからそうでしょう。では来年度もその愛らしいお顔を俺に見せてくれますか?」
「……っ」
やはり俺に嘘は向いていないらしい。
言葉に詰まったそれを肯定と取ったのか、神谷は鋭く目を細めた。
というか先輩に向かって愛らしいとはなんだ。
「辞職理由は七海とのことでしょう。胃潰瘍になるほど罪悪感を抱えているのは分かりますが、辞職した所であなたの罪悪感は晴れるのでしょうか。真面目なあなたですから、最低でも七海が成人するまでは苦しむのではないですか?」
「…だが少なくとも今よりはマシだ」
「冷静になって下さい。来年になれば七海は卒業しています。少なくともこの場であなた達を咎める者はいなくなります」
「そういう問題じゃない。倫理的に俺が高校教師を続けながらアイツと時間をともにすることが耐えられない。俺はそういう人間なんだ」
「分かっています。…分かっていますが、待って下さい」
神谷はどこか必死で、額に手を当てて項垂れる。
そこまでコイツが俺に食い下がってくるとは思わなかった。
「…新しい就職先はもう決まっているのですか?」
「ああ。知り合いの大学教授のもとで数学者として今後は世話になる事を決めている」
「それは…本来あるべき未来に戻ったという感じですね」
「元々俺は教師になど向いてなかったんだ。この歳になってそれがようやく分かっただけだ」
「そんなことは…」
「ならばこんな結果になどなっていない」
ハッキリと言ってのける。
元々数学一辺倒だった俺が、多くの若者を導き育てていく教師になど向いていなかった。
ここにきてようやくそれが分かっただけだ。
店内からはぽつりぽつりと人が捌けていき、少しずつ賑やかさが消えていく。
いつの間にか酒は進んでいて、神谷はクイとワインを飲み干してテーブルに置いた。
「…本来ならばお祝いするべきなのでしょうね。ですがどうしても今決めるのは早計に思います。七海を信用するのは早すぎる」
「何言って…」
「アイツは子供です。今は教師というあなたに興味を持っているかも知れませんが、大学に行ったらあっさりと気持ちが変わるかも知れません。そうなった時、環境を変えたことを後悔するかもしれないのですよ」
「それは――」
そんなこと神谷に言われなくても分かっている。
アイツがいつ俺を飽きるかなんて、そんな不安はもうずっと隣り合わせだ。
必死に見て見ぬふりしようとしている不安を指摘され、動揺を隠すように酒に手を伸ばす。
「俺も七海が大事なことを適当にする奴ではないと分かっているつもりです。ですがあなたにつらい思いはしてほしくない。せめてもう一年様子を見ても遅くはないはずです」
「だが…」
「あなたを苦しめているのはあなた自身です。罪悪感も…倫理も道徳も誰かが決めた先入観だと割り切ればいい」
そんなことが出来るのはお前と七海くらいだ。
俺にはきっとそんな器用な生き方は出来ない。
俺の表情に神谷は難しい顔で俯く。
神谷なら俺の気持ちが変わらないことくらい、もうとっくに分かっているだろう。
「すみませんでした。ただ俺は…」
どこか霞み始めた頭が、ぼんやりと神谷の横顔を見つめる。
神谷の表情はどこか切なげで、そんな表情を見るのは初めてだった。
「…俺はまだ、あなたと一緒にいたいです」
その言葉と共に神谷の気持ちが流れ込んでくる。
痛いほど伝わってくる感情に俺は何も返す事が出来ず、ただ誤魔化すように酒に手を伸ばしていた。
「紺野先生、大丈夫ですか?」
「…え、ああ」
神谷の声がどこか遠く聞こえる。
くらりと視界が回り、眼鏡を外して眉間を揉む。
まずい、飲みすぎた。
「俺が少し余計なことを言い過ぎましたね。動揺させてしまってすみませんでした」
「…いや、お前のせいでは――」
言いかけた時、店員に最終オーダーだと告げられる。
ならばそろそろ帰るかとふわふわした感覚のまま立ち上がったが、視界がぼやけていた。
あれ、と瞬いてキョロキョロと顔を動かすと、神谷のクスクスと笑う声が聞こえてくる。
「紺野先生、眼鏡取られたでしょう」
「…ああ」
そういえばそうだったか。
手探りで眼鏡を取ろうとしたが、ひょいと神谷に持っていかれた。
返せと手を伸ばすと、その手をギュッと取られる。
「とりあえずお店をでましょうか」
そう言って神谷は手を握ったまま、俺の荷物ごと店の外へと連れ出した。
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