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二人
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「鶴松が店が開く前に羊羹を持って来てくれたわ、ありがと」
千代吉はタバコをくゆらせながら目の前で寝転がっている美坂野に言った。
「そうか」
「美坂野兄ちゃんからもらったから、食べて。ってね」
「うまかったか?」
「ええ、おいしかった。あんたが貢がせている人間の土産でしょうけど」
「悪ぃかよ」
「いいえ」
美坂野は手酌で酒を飲み、千代吉は無言でキセルのタバコをくゆらす。
「鶴松は夜の吉原が嫌いみたいね。羊羹投げつけるように渡したら逃げるように帰って行ったわ」
ククク、と思い出して千代吉が着物の袖で口元を隠して笑った。
「俺たちと住む世界が違ぇーからな」
「そうね」
二人は小さい頃から酸いも甘いを知り尽くした二人だった。
鶴松のことは小さい頃から知っているが境遇は全く違う。
まだガキの頃の美坂野も千代吉もお互いのことは知っていた。
「芝居小屋に売られたあんたは売れっ子役者、遊郭に売られた私は今や花魁さ」
「だったらなんだ?」
「ふん。泥水を飲んで来たあたしたちがさ、よく成りあがったものさとね」
筆舌に耐えがたい処遇を受けて来た。
男にも女にも買われた。
さまざまなことを大人たちに強(し)いられた。
利用された。
身体も心も弄(もてあそ)ばれて来た。
だから俺たちも。
やつらを利用しただけだ。
「美坂野、あんたあたしのところに来てただ寝っ転がって酒チビチビ飲んでる位なら芸者でも呼んで遊んだ方が安上がりだろうに。花魁のあたしを指名して何もなしに酒だけ飲んで話して帰るなんざ酔狂(すいきょう)が過ぎるねぇ」
「てめぇは俺に抱かれたいのかよ」
「はん!!うぬぼれんじゃないよ。ションベン垂らしてたガキの頃から知ってるあんたに抱かれる程あたしはお安くないさ」
「相変わらず口汚ねぇ女狐だな、てめぇーは」
「お前さんに言われたかないねぇ。あたしんところに来なくても、タダであんたに抱かれたい女もたくさんいるし貢ぐ男も女もいるだろうさ。なんでわざわざ大金払ってあたしのとこ来るのさ」
美坂野はつまらなそうに千代吉の顔を寝っ転がりながら見つめた。
「忘れない為さ」
「忘れない為?」
「俺たちが受けて来たことをさ。これがあったから今の俺たちがある」
忘れてなるものか。
死ぬことすら何度も考えた。
死んだら俺を売ったおっ母とおっ父が困る。
たくさんの兄弟が路頭に迷う。
俺に払ったお金を返せと借金取りが家族を苦しめるだろう。
その家族とも6歳から会っていない。
死ぬことすら許されなかった。
この悔しさ、悲しさ。みじめさ。
これが今の美坂野を作った。
目の前の千代吉だって同じだ。
俺よりも立ち場は悪いし辛いだろう。
千代吉の借金はまだ残っている。稼げるような額ではなかった。
吉原の町に隔離されて吉原の大門をくぐって外に出ることさえ許されない生活。
町から吉原には男なら誰でも入れたが女が入るのは制限されていた。
遊郭から逃げようとする遊女と勘違いされたり区別がつかなくなるからだ。
生まれては苦界、死しては投げ込み寺。
売られて来て吉原から足抜け出来る時は身請けされるか死んで引き取り手もない屍(しかばね)になった時だ。
この町から千代吉は身請けされるか自身で金を稼いで借金を返さない限りは出られない。
「美坂野。あんた悲しい生き方してるね」
「お前はどうなんだよ」
「あたしかい?あたしは吉原の中でも外でも同じさ。あたしはあたし。笑いながら楽しかったっておっ死んでやるよ。あんたみたいに恨み事を心根に持って生きようなんて思っちゃいないさ。これがあたしの今生の運命(さだめ)なのだろうさ」
手酌をしようとする美坂野の手をパチンと引っ叩いて千代吉は酌をした。
「あんただっていいことあっただろう。鶴松とかさ」
「鶴松か」
芝居小屋に売られたからと言って芝居をしていたわけじゃない。
売春をさせられていただけだ。
それをしないと生きていけなかった。
飯が食えないから。
客の来ない朝や昼は飯にありつけなかった。
小屋にいて姿を見られたら兄弟子や小屋の人間からさぼってんじゃねえと怒号が飛ぶ、叩かれる、こき使われる。
店を抜け出してひもじくて動けなくなって道端でじっとうずくまって何かの種をずっとしゃぶっていた時にまだ覚束ない足取りで奉公の人間に手をひかれて歩いて来た鶴松が声をかけてくれた。
「どうしたの?」
「若いけません!!」
奉公の人間が止めようとするのを気にせず鶴松がトテトテと歩いて来る。
声も出せない位疲労していた。
鶴松が腰の巾着から饅頭を出して
「これおいしいよ」
と差し出してくれたのを奪い取るようにして食べた。
涙がポロポロこぼれてしょうがなかった。
そんな出会いから鶴松と何度も顔を合わせる内に俺は。
鶴松のことを。
大事に思うようになった。
「そうよ。あんたには鶴松がいてあたしには禿(かむろ)の頃にあたしを可愛がってくれた花魁の姐さんがいた。もう今はいないけど」
千代吉は結った髪に差してある簪(かんざし)をそっとさすった。
「これは姐さんがくれた形見」
「ああ。あの優しそうな花魁か?」
「多分そうさ。あんたには名前も教えたくない位観音様みたいな人だった」
「ふん!!そうかよ」
「オマンマも食わせてもらえないあたしに、故郷付いて泣くあたしに、こっそり客の帰った後の残った握り飯をくれた。抱き締めて慰めてくれた。これは死んだ姐さんの形見さ。悪くないじゃないか。それだけであたしは満足さ。美坂野、あんたもそうだろう?」
そうなんだろう。
「美坂野。あんた分かってんだろう。ぼーっとしてても鶴松は大店の若さんさ。あたしらみたいな日陰者がつるんでいい御仁じゃないのさ。遊びで戯(たわむ)れるまで。本気になっちゃいけない。特にあんたは」
お前はそれを言うのか。
「あんたが鶴松と付き合うと鶴松が不幸になるわいな」
そうなんだろう。
俺はのし上がる為に自分の体を売り、媚を売り、騙し、金をせびりで生きて来た。
天真爛漫な鶴松に岡惚れしちゃいけないんだろう。
こんなに汚れ切っているって分かっているのに。
ああ、涙は綺麗な水色だ。
千代吉は目をそらして静かに涙が流れている美坂野の頬を見ないようにしていた。
「湿気(しけ)た夜だね。月も見えないつまらない夜さ。酒が無いじゃないか。ここからはあたしの奢りさ。飲みな」
花魁言葉で千代吉は襖(ふすま)の外にいる禿(かむろ)に酒を自分のツケで追加で持って来るように言った。
小さい頃、吉原に体を買われた爺に何度も連れられて来たことが美坂野はあった。
酒の余興で遊女たちの前で変態的な辱(はずかし)めを受ける中、お互いの暗い目が合って言葉を交わさずとも意思疎通をしたのが当時禿(かむろ)だった千代吉だ。
あの頃からの仲だ。
お互いの見られたくない過去を見知っている。
お互いの心の奥底を知っている。
もうあの頃には戻らない。
千代吉は俺や鶴松としゃべる時は花魁言葉を使わず生まれた国の訛りを出して普通に話す。
「美坂野。あたしこの前鶴松に女を知りたきゃあたしを買いなと言ったわ」
「てめぇ!!」
「色惚けしてんじゃないよ、美坂野!!」
千代吉がピシリと言い放った。
「鶴松はいつかかわいい金持ちの娘を娶(めと)ってあたしらとはさよならしなきゃいけない人だ。あんた、鶴松が女に惚れた時にイチイチ目くじら立てるのかい!?違うだろう!!あんたを救ってくれたんなら笑顔でさよならしてやんな!!」
「分かってらぁ」
「分かってないじゃないか」
畳の上で握り拳を作る美坂野を呆れた顔で千代吉は見た。
美坂野のこの負けず嫌い、我の強さが売れっ子役者にのし上がった所以(ゆえん)でもある。
大事にしたい、一歩身をひかないといけないと分かっていてもそれが美坂野は出来ずにいた。
美坂野自身が誰か他の人間を抱いたり、抱かれたりしていたとしても。
鶴松は俺のもんだ。
と自分勝手なことを思う美坂野だったのだ。
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