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月と星の輝く夜
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その日染芳は野乃助の家に来ていた。
「うん、いい出来だ」
染芳から渡された新しいお白箱を野乃助は四方から眺めながら言う。
「いくら?」
「ただでいいよ」
実際余り木で組んだ箱だったし片手間で作っていたものだからただでよかった。
「そういうわけにはいかない。いくらだ?」
「だからただでいいと言っている」
染芳と野乃助は頑固なのである。
お互い言い合っていたが野乃助が折れた。
「分かった。だが、ただというのも気が引ける。飯を奢る」
「分かった」
野乃助は提灯の蝋燭に火を灯した。
時間は夕刻を過ぎ、外は暗くなって来ていた。
以前にも書いたが生活費における燃料費の割合は大きい。生活費の50%が燃料費と思ってもらったらどれ位その割合が大きいか分かるだろうか。
電気やガスの無い時代の為、飯を炊くのにも明りにも薪や油が必要になるのである。
江戸の町は吉原のようにいつも提灯がたくさん掲げられる夜の町ならいざ知らずやはり暗く静かになるのである。
「今宵は月が大きいな」
「そうだな。提灯の明かりだけで充分だな」
「野乃助、時間を気にしろよ」
「分かってるよ。天麩羅でよい?」
「うむ」
江戸時代は夜の外出に関しては戒厳令が出され、夜の22時以降は外出禁止のお触れが出されることもあった。また、夜出歩く際は提灯を携帯するのを決められたり。
それは夜盗と区別をつける為というのもある。
江戸時代は平和で安全と言っても夜はやはり物騒なのである。
さらに闇がまだ濃い時代、物の怪なども信じられていた時代である。
野乃助の提灯に先導されて歩く染芳は腰に携帯している刀の鍔(つば)をすぐに抜けるように腰辺りの着物の中に手を入れていた。
「ああ、天麩羅屋がちょうどあったあそこで食べよう」
「うむ」
当時参勤交代で単身赴任して来ている大名やその家来たち、近隣から出稼ぎに来ている単身者で江戸の町は男が多かった。
男一人暮らしには外食する方が効率がよく手軽な為、外食産業は盛んだったのである。
蕎麦屋や天麩羅屋、寿司屋はその外食産業の中では気軽に食べられる現在で言うところのファーストフードで、屋台で食べる物であった。庶民の味だったのである。
染芳と野乃助の食べる天麩羅屋は高温の油を使う為、火事の原因にもなることから屋内での営業は禁止されていた。奥外で食べる屋台の食べ物だったのである。
また当時の屋台は一定の場所で営業しているスタイルではなく移動式である。
担ぎ棒の中央を担いで歩き、左右の箱に鍋や七輪や燃料が入っていたりした。
野乃助と染芳は簡易な椅子に腰かけて親爺の揚げる天麩羅を食し、酒を呑んだ。
「もっと飲めよ」
「いや、酔っぱらうわけにはいかぬ」
「なんで?」
「武士だから人前でそんな酔っぱらった姿を見せるわけにはいかぬ」
「つまらねえ生き物だな」
染芳は野乃助の言葉に
「俺はつまらない生き物か」
とボソっとつぶやいた。
染芳の声色に驚いて隣の染芳を野乃助は見た。
「つまらなくなんかねーよ。冗談に決まってるだろ」
「・・・・・・」
「つまらねーのは俺の方さ」
「?」
「お前は偉いよ。俺は染芳みたいな生き方は出来ない」
染芳は野乃助がしゃべるのを黙って聞いていた。
「俺は上方の出身の人間じゃない。江戸の近くの里の出身さ。上方言葉を使うと高く売れたんだ。俺は美坂野と同じさ。同じ頃陰間で春を売ってた。だから美坂野も俺もお互いのこと知ってるのさ。俺たちはお互いの過去のことなんか言わねえが。上方言葉使うと客が喜んでよく買ってくれた。早く借金返して足抜けしたくて使ってたんだが、ちきしょう。もう使わなくていいのに今でも出ちまう。業が深ぇなあ。俺はもう自由なのにな」
実際陰間というものは上方の貴族の間で流行っていたものが江戸に流れて来たところもある。当時は上方出身の陰間は評判が良く、人気があったのである。
「染芳、俺のこと汚い物見るような目で見るなよ」
しゃべる野乃助をじっと見ていた染芳の視線から目をそらすように野乃助は言った。
「何が汚いか。そんなこと思っていない」
酔っぱらっているのか饒舌に自分語りをしていた野乃助がふと無言になった。
「生きる為であったのだろう?何が汚いか」
「だったらなんで俺のこと抱いてくれねーんだよ」
「何故そうなる!?」
突然の言葉に染芳があたふたしていると野乃助は「親爺、勘定」とお金を叩きつけるようにして渡すと立ち上がってフラフラと通りを提灯を持って歩き出した。
染芳も慌てて後を追う。
染芳は先を歩く野乃助の数歩後を黙って歩いた。
野乃助はフラフラ歩きながら提灯を持っていない方の袖で顔をたまに拭っているようだった。
泣いているのか。
染芳は不器用かつ鈍感である。
男が泣くのは恥、人に涙を見られるは屈辱と染芳は考えていた。
泣いているであろう野乃助を慰めるのもその姿を見るのも野乃助に失礼だと、間が悪いことに武士である染芳の考えが頭をよぎったのである。
野乃助は自分の過去を思い出して泣いているのであろうと。
実際は染芳を思って野乃助は泣いているのである。
何も声をかけずただ背後を黙ってついて来る染芳に野乃助はどう思っていたであろうか。その涙と震える後姿が全てを物語っていたはずである。
だが染芳はまだ気付けていなかった。
染芳は野乃助に声をかけることもなく一定の距離を置いてついていった。
野乃助は自分の長屋の家に到着するとこちらを振り返ることなく戸を後ろ手に閉めようとした。
染芳は無言でその戸を閉めようとする手を止めた。
「何故、急に一人で帰ろうとするのだ。俺は何か悪いことでも言ったか?」
野乃助は答えずその手を振り払って戸を強く閉めた。
染芳は野乃助の長屋の家の前で一人立ち尽くす形になった。
どれ位そうしていただろう。
急に喪失感が心を襲った。
ふと顔を頭上の空へと向けた。
大きな月と星が見えた。
その時染芳は確信してしまった。
ああ、俺は野乃助を好いてしまっているのかと。
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