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千代吉と野乃助
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「野乃助、どうなんした(どうなさいましたか)?見の詰まることおざんしたか(辛いことがありましたか)?」
千代吉はキセルをくゆらせながら野乃助に花魁言葉で問うた。
「へぇ」
曖昧に野乃助は返事をした。
野乃助は吉原の遊女たちにお白粉を売りに来ていた。
紅やお白粉を大量に消費する遊郭、遊女は野乃助のお得意様でもある。
眉目秀麗な野乃助の周囲には仙吉楼の遊女たちが総出で詰め寄り、野乃助の回りでキャッキャとはしゃいでいた。
遊女の一日としては夜泊まりでいた客を卯の刻(朝6時位)に朝帰りをさせる準備をさせて送り出す。
幕府によって営業時間は決められていた。客が一昼夜以上泊まるのは禁止されていた為必ず吉原の大門が開く卯の刻に送り出さなければいけないというのがあった。
その後遊女は部屋に戻り仮眠を取る。
夜中でも客が目を覚ましたら自分も起きるという不文律があった為、客がいる間遊女は熟睡が出来ないのである。
仮眠は巳の刻頃(午前10時)まで続き、床を離れて風呂に入り朝食になる。
朝食は楼主が振る舞う賄い飯のようなものである。一汁一菜の簡素なものであった。
朝食といっても時間的には昼食で、夜見世が始まる前に取る夕食を含めて一日二食。
食事の後、部屋の掃除や化粧などをして、未の刻(午後2時)に昼見世に出る。昼間の客の多くは、吉原見物の田舎者などの冷やかしで、昼見世は暇な時間帯が続いた。要領のいい遊女はその時間帯に化粧などをしていた。
昼見世は申の刻(午後4時)にいったん閉める。酉の刻(午後6時)から営業を開始する夜見世まで遊女たちは客への手紙を書いたり、仲間と談笑したりという自由な時間を持つことになる。
その昼見世が終わり夜見世までの休憩時間に野乃助は千代吉に呼ばれてお白粉を売りに来ていた。
「ねえ、野乃さん私を買いに来ておくれよー」
「野乃さんこれいくら?」
「野乃さん、ねえ野乃さんったら」
「野乃さん、この紅、あたしに似合うかしら?」
野乃助は物腰の柔らかさやその見た目に遊女たちにも人気があった。
仙吉楼の遊女たち全員が回りに集って野乃助にまとわりついていた。
部屋の主である花魁千代吉は遊女たちの今でいう現代の女子高生のようにイケメンの周囲ではしゃぐ姿に呆れていた。
「後生だから、皆々様、ちっとものを言わずにいておくんなんし(お願いだから、少し黙っててくれない?)」
千代吉が睨みを利かせると遊女たちはピタリとはしゃぐのを止めた。
千代吉は仙吉楼のトップ、花魁なのである。
遊女たちも勿論それを知っているし、千代吉の名声に惹かれて千代吉は到底買えないとしてもそのお店で遊女を買おう、と客が仙吉楼に来ることもままある。
遊女たちにしてみればおこぼれに預かっていることもあるし、トップの座にいる千代吉はどの遊郭の花魁たちよりも面倒見が良く同じお店以外の遊女たちからも好かれていた。
それぞれの楼閣の遊女と花魁を見分ける方法は着ている物などであったり花魁言葉であったりだが、他の遊女にはない気迫とその一際目立つ美しい外見で言わずもがな、だった。
仙吉楼始まって以来の売れっ子花魁、吉原に千代吉ありとまで言わせた花魁だったのである。
千代吉に逆らう者もいなかったがそれに驕(おご)り高ぶる嫌な部分がない千代吉は野乃助が仙吉楼にお白粉を売りに来た時に、一番綺麗で広い自分の部屋に通し遊女たちもこちらにみんないらっしゃいと誘ったのだ。
自分のお金で禿(かむろ)に遊女たちの食べるお菓子を買いに行かせ禿のお駄賃も渡し、お茶の準備をしてもてなしていた。
千代吉はそんな人間だった。
人に情けもかけるからお金がなかなか貯まらないのも道理である。
千代吉は花魁言葉で野乃助と話があるから二人きりにしてくれと言うと遊女たちは素直に従ってお菓子のお礼を言いながら部屋を出て行った。
「さて、どうしたのさ。野乃助」
花魁言葉を止めた千代吉がいつもの口調で問うた。
「いえ、どうもしてはおりませぬ」
「どうもしてないわけないだろう。冴えない顔してるよあんた」
「そうですか?私はいつも通りだと思いますが」
「あたしを誰だとお思いだい?男たちを見て来た仙吉楼の千代吉だよ。顔見ただけで分かるわいな」
「千代吉姐さんには敵(かな)わねえや」
野乃助は頭をかいてまだ16歳らしい一面を見せた。
「何があったか包み隠さずおっしゃい」
「へぇ」
野乃助は染芳とのこと、天麩羅を食べた夜のこと、そして今全く話も出来ず会ってもお互い素知らぬ振りであることを話した。
千代吉は話を聞きながら「ははーん、染芳という男も野乃助もお互い想い合っているんだねえ」と察したが野乃助は美坂野と同じ陰間上がりというのは千代吉もよく知っていたし、毎朝のように呼び出している鶴松から毎日の出来ごとを聞いていたので染芳が旗本の次男坊、武家出身というのも知っていた。
お武家様は固いし野暮だからねえ、と今まで相手にして来た武家の客の顔を思い出しながら千代吉は思った。
野乃助を好いていたとしても気軽に接しきれていない、野乃助も惚れているんだろうけど陰間だった自分や相手が武家であること、そして何より染芳という男の出方が曖昧で悩んでいるんだろうと千代吉は瞬時に悟った。
ええ、まどろっこしい。
男はどうしてこうもウジウジしているのさ。
千代吉は目の前に野乃助と染芳両人を目の前に座らせ
「好きなら付き合いな」
と一言怒鳴ればそれでお終(しま)いな話だねと思ったが千代吉にはそれが出来ない。
吉原から出られない。
市井(しせい)とは違う世界で生きている。
染芳をここに連れて来な、と言っても鶴松や野乃助から聞いた染芳の性格上無理だろう。
そんな野郎なんだろう。
女も知らなそうな堅物(かたぶつ:生真面目で融通の利かない者)なんだろう。
「野乃助、下に行って下男(雑用をしている男)に鶴松をすぐ寄越すように伝言に行かせてちょうだい」
「何故ですか?」
「いいから言う通りにおし。夜見世が始まる前に。急ぎで!!」
「へぇ」
と階下に野乃助を行かせた。
千代吉はキセルに火を着け紫煙をくゆらせた。
私は人の恋路にも顔を突っ込めない吉原の女。
つまらないものだ。
でもこの綺麗な部屋の中でも誰かを動かすことは出来るわいな。
世界だってこの部屋から見ることも聞くことも出来る。
その場で人の感情が動く様や物事が動き出すのを見ることが出来ない立場だとしても。
千代吉はそう思いつつ煙をふーっと吹き出した。
野乃助が戻って来る。
「呼びに行かせました」
「ご苦労様。あんた酒でも飲むかい?」
「いや、仕事中ですから」
「そこら辺は野乃助は野暮だね。だからそんなにウジウジするのさ」
「へぇ」
江戸時代には飲酒年齢制限はないので16歳の野乃助でも酒は飲んでいた。飲酒年齢制限が出来たのは1922年、大正時代である。
千代吉は夜見世があるので飲まなかったが、禿(かむろ)に自分のツケで酒を持って来させて野乃助に酌をした。
野乃助が杯を傾けていた時階下で鶴松が急いで来たのだろう、「わーっ!!」という叫び声と派手に何かが倒れる音がした。階下が騒がしくなる。
「鶴松転んだねぇ」
「そうみたいですね」
「ほんとに落ち着きのない子だよ」
千代吉と野乃助はそう言って笑った。
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