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初めての苦悩
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「鶴松。随分派手に転んだねえ」
「だって夜見世が始まっちゃうから。千代吉姐さん。用事ってなーに?」
鶴松は腐っても大店の子息。
遊女たちからしたら上客に成り得る男なのである。
見世が始まると格子(こうし)の顔見せのところからいくつもの手が鶴松の方へと伸びる。色気を飛ばす。
鶴松はそれが苦手だったのである。
「用事という程の用件でもないのさ。染芳という男には最近会ったかい?」
「うん。昨日会いに来た」
「何しに来た?」
「野乃ちゃんに夜這いするから春画と指南本貸してくれって」
鶴松は染芳に他言無用と言われていたのも忘れてしゃべる。
「ほら、野乃助。染芳もお前さんに惚れているじゃないか。やることは一つじゃないか」
千代吉は高笑いしながら野乃助に言う。
「しかし、染芳はそんな態度をおくびにも出していなかったのです」
「バカだねぇ。女も抱いたことがない、色も知らない武家の出の男なんだよ。私たちとは住んでいた世界が違うわいな。野乃助、とっとと長屋にお帰り。そして染芳の夜這いを待ちな」
「あー、野乃ちゃん。言わない方が良かった?」
さも、野乃助は今夜染芳に抱かれるのが当然といった面持ちで言う二人に野乃助は顔が上気した。
野乃助は頭がクラクラした。
「ですが、俺とは身分が違う。染芳はお武家様で旗本の次男坊だ」
「ふん。つまらないね。染芳の家は乗っ取られるのは確定だよ」
「え?」
「高利貸の町人の娘が違う武家の家に養女に入った。つまり染芳の家の長男と結婚する為に武家の家に娘を入れたんだろう」
武家は武家同士との結婚を。
士農工商の因習は微妙に生きている。
「それ、染芳さんのお兄さんと?」
「そうさ。あたしの客にはお武家様も大名もいるからね。そんな話は入って来るさ。もう染芳の家は駄目さね。町人の悪徳狸爺に乗っ取られるのも時間の問題さ。染芳はもう実家には戻れないだろう」
野乃助はその話に衝撃を受けた。
「それはもうどうにもならないのですか?」
悲痛な面持ちで千代吉に野乃助は聞いた。
「どうしようもないだろうね。染芳の家は借金だらけなんだろう?その借金の肩代わりをする代わりに旗本株はどうしたんだろうねえ?狸爺には年頃の娘もいる。染芳の兄さんも妻がいなかったから血も乗っ取るつもりなんだろう。狸親爺がその為に娘を同じように借金のある武家に養女に入れたんだろう。旗本株はそれからもらうんだろうねえ。やり方がおぞましい」
旗本株というのは簡単に言えば旗本が町人から借金をする代わりにその弟子、家族、子供などを養子として迎え入れるという約束である。
旗本や御家人を武士ではなく町人が乗っ取る時に使われた常套手段である。
乗っ取られた旗本はどうなるか?お役御免をして隠居をして旗本ではなくなる。ただ、有事の時には幕府から呼び出される。
千代吉の話では、染芳の家はまず狸親爺の娘を嫁として迎えさせられ、旗本株を抵当に入れさせている高利貸の狸親爺が家に入り当主である染芳の父親、家族を追い出して狸親爺が当主に。そして娘共々家を乗っ取って権力を握るつもりだろうとのことだった。
「そんな・・・・・」
野乃助は自分のことのようにショックを受けた。
染芳はあれだけお家復興の為に何が出来るか頑張っていたのに。
座っていた野乃助は片膝を立てた。
「千代吉姐さんすいません。俺はそろそろ行きます」
「気をつけて帰んな」
千代吉はキセルをくゆらせ野乃助が退席するのを許した。
小走りで退席した野乃助を千代吉と鶴松は見ていた。
染芳に会いに行くんだろう。
鶴松は千代吉に向き直った。
「千代吉姐さん。染芳さんはどうにもならないの?」
「ならないね。武士を捨てて生きて行くしかないよ」
千代吉は非情にも言い切った。
「染芳さんはそれを知っているの?」
「昨日鶴松のところに来た時の様子を聞く限りでは知らないんだろう。だけど近い内に知ることになるわいな。その時に無茶をしないように鶴松、あんたは見ていないといけないし染芳の側に誰か支えてやるやつがいないといけない」
「はい」
「野乃助にその役をさせないといけない。染芳が何をするか分からない。武士の誇りだけは一丁前の男なんだろう?最悪、何か起こすか自害しかねない。だから野乃助と早くくっついた方がいいのさ」
「どうして?」
鶴松は分からずに聞いた。
「守りたい者が出来た時人は強くなるからさ」
千代吉はそう言って目を細めた。
「鶴松あんたも帰りな。あんたの嫌いな夜見世が始まるよ。あたしも準備があるんでね」
千代吉が「誰か」と声を上げると襖が開いて禿(かむろ)が入って来た。
「鶴松がお帰りだ。草履を出して送り出しておやり」
「はい、花魁」
禿に先導され千代吉の部屋を出る時千代吉は鏡に向き直って化粧を直していた。
鶴松は思う。
唄会どころではなくなったのではないか。
浮かれていた自分を恥じた。
大切な人たちの為に自分に何が出来るのか。
それを強く意識し出した。
野乃助は染芳の元に行ったのだろう。
唄会のことは伝えられずにいたが染芳には言っている。
染芳から野乃助に伝えられるかもしれないがそれどころじゃないんじゃないだろうか。
どうしよう。
鶴松は誰かのことを思って一生懸命に悩む自分自身にこの時気付いてはいなかった。
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