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手つなぎ
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美坂野は夕陽が傾く中、戸を叩く者に訝(いぶかし)しげに戸の隙間から外を見た。
熱狂的なファンや相手にしたくないパトロンなどが直接家に来たりするのでいつものように隙間から外を見て居留守を使うか決めようと思っていた。
鶴松がハァハァ言いながら戸の前に立っていた。
「どうした!?」
「う・うん。走って来たから喉乾いちゃった」
戸を開けると鶴松は汗をかきながらハァハァ言っている。
こんな時間に鶴松が訪ねて来るのは初めてである。
鶴松を家に招き入れ、水を飲ませた。
「はぁー。生き返った。じゃ!!」
そしてまた鶴松は出て行こうとした。
「おい、待て。お前は水を飲みに来ただけなのか?」
「うーん?今僕の部屋、染芳さんと野乃ちゃんいるんだ」
と鶴松はモジモジしながら言った。
「ははーん、鶴松。気を利かせて二人にしてあげたんだな」
「うん。飛び出して来たんだけどお金忘れて来ちゃって。喉渇いたから寄った。じゃ!!」
「おい、待て。鶴松どこに帰るんだい?」
「うん、朝まで帰らないと二人には言っているからどこかにいるつもり。竹林とかで寝っ転がって朝迎えようかなー」
鶴松の自由さに美坂野は呆れた。
「物の怪にさらわれるか夜盗が出たらどうするんだ」
「竹林に身をひそめて過ごすから大丈夫だよ。誰にも気付かれないの得意。隠れ鬼、僕得意なんだから」
自信満々で言う鶴松に美坂野は
「そんなことしなくていい。ここに泊まればいいじゃねーか」
と出て行こうとする鶴松の腕を取って部屋に招き入れた。
「いいの?」
「当たり前だろう」
鶴松の腹の虫がグゥと鳴る。
「鶴松ご飯食べてないのかい?」
「うん」
情けない声を出す鶴松に美坂野は優しい気持ちになる。
「おいで。買って来た飯があるから一緒に食べよう」
「いいよ。美坂野兄ちゃんのでしょ?」
「俺はあんまり腹減ってねぇから食べな」
買って来た天麩羅と握り飯を笹の葉で包んだ物を鶴松の前に出した。
「いいよ。これ一人分で美坂野兄ちゃんが食べるから買ったんでしょう?」
「いいから」
「じゃあ二人で分けて食べよう」
目の前であの時の笑顔で二つに分けた飯を鶴松が差し出した。
ずっとずっと。
忘れたことがないあの笑顔だ。
この笑顔があると荒んだ気持ちや過去を恨む気持ちがスッと軽くなる。
あの時言えなかった言葉が自然と口に出た。
「ありがとよ」
鶴松はおかしそうに笑って言う。
「なんでー?これ美坂野兄ちゃんからもらった物なのにー。お礼は僕の方だよ、ありがとー」
そう思ってるならそれでいいが。
ずっと昔にもらった物がある。
この温かい気持ち。
自分に価値なんてない、と死ぬことばかり考えていた俺に。
体を売るしか値打ちのなかった俺に。
またあの柔らかな笑顔を見たい、生きたいと思わせてくれた鶴松が目の前にいる。
「ありがとよ」
と受け取った飯を食べながら目の前にいる鶴松の笑顔を見ていた。
「目の前にいるのになあ。なんで捕まえること出来ねえのかなあ」
「何が?」
「なんでもねぇよ。おいしかったかい?」
「うん」
飯を食べ終えて鶴松は自分の手についている飯粒をペロペロと舐めていた。
美坂野は鶴松の手を取る。
その手を舐めた。
「美坂野兄ちゃん!?」
無言で美坂野は舐め続けた。
「何してんの?」
「舐めてんだよ」
「どうして?」
「舐めたいからだ」
「う・うーん?」
鶴松は汗かいてるのに男くさくねーんだな。
なんでこんな甘い香りがするんだ。
美坂野は泣きたい気持ちになって来た。
切ない。
なんだこの感情は。
美坂野は分からずに戸惑う。
「どうしたの?美坂野兄ちゃん」
「分からねぇ。悲しくなった、なんだこれは。チキショウ」
美坂野は鶴松を抱きしめた。
「美坂野兄ちゃん、なんか辛いことあった?」
鶴松は美坂野の頭を撫でる。
辛いことなら。
今までたくさんあった。
それよりもなによりも。
鶴松のことの方が考えると辛い。
今までのどんなことよりも辛かった。
これが戀(こい)ってやつか。
俺はとことん報(むく)われねえなぁ、と美坂野はシミジミ思った。
「鶴松」
「なーに?」
「俺とさ、無期限で旅でも出ないか?」
「無期限?」
「そうさ。風に導かれるまま旅に出よう。俺も役者から足抜けしてさ。金ならある。鶴松も店とか全部放ってさ、二人で気の向くまま旅に出ねぇか?」
本気だった。
「駄目だよ」
鶴松が頭を振った。
答えなんて分かっていたが美坂野はさらに辛い気持ちになった。
「そっか。それじゃしょうがねーやな。俺も役者辞めたら何も出来ない馬鹿だからなぁ。これしか出来ねーからなあ。鶴松は大店の息子だから家の人間も許さねーな」
言いながらまた涙が流れそうになった。
「どうしたの?美坂野兄ちゃんおかしいよ」
「どうしたんだろうな。ああ、夕陽があんまり綺麗だからじゃねーかな。部屋に差し込むからおかしな気分になっちまった」
「そうだね。今日の夕焼け綺麗だね」
部屋に差しこむ夕焼けが二人を染めていた。
「鶴松走って来て、飯食ったから眠くなってんじゃねーか?」
「うん、眠い」
「早いが寝ようか」
美坂野は布団を二組用意した。
「美坂野兄ちゃん、ちゃんと布団干してる?」
「すまねぇ、臭いか?」
「ううん。ちゃんとそういうのしてくれる女の人出来るといいね」
鶴松が笑ってこちらを見た。
「そうだな」
二人布団に入る。
「なあ、鶴松」
「なーに?」
「手ぇつないでいいか?」
「うーん?いいよ」
美坂野は布団から手を出して隣で寝ている鶴松の手を取った。
「行燈の火消さなくていいの?」
「油もそろそろ切れるところだから消さなくていいよ」
「火事になったら大変だから僕消すよ」
「いいから。このままでいてくれ」
立ち上がって手を離そうとする鶴松の手を美坂野はぎゅっと握りしめて離さなかった。
「このままでいてくれ」
「うん」
部屋を薄闇が染めて行く。
美坂野は千代吉の言葉を思い出していた。
この重ね合う手はいつか。
離さなければいけないのだろうか?
どれ位そうしていただろう。
「鶴松寝たのか?」
「ううん」
「こっちに来ねえか?」
「一緒に寝るの?」
「そうだよ」
「うん」
鶴松は笑顔なんだろう。
俺の今思っている気持ちとは別の気持ちだろう。
「こうやって一緒に寝るのって姉様と子供の頃一緒に眠った時以来」
「そうか」
じゃれて来る鶴松を抱き止めながら美坂野は鶴松の匂いを吸い込みうなじを何度も撫でていた。
鶴松はその内寝息を立て始めた。
美坂野は抱き締めたまま眠らずに鶴松の寝顔が見える朝陽が昇るのを待った。
ずっとこの夜が続けばいいのにと腕の中で眠る鶴松を暗闇の中で感じながら美坂野は思った。
暗いから鶴松の寝顔が見えないがもしかしたら狐か狸が俺の鶴松を想う気持ちを知って化かしているのかもしれない。
朝になったらこれも夢で腕に抱いているのは木で。
俺は絶望するんだろうか。
この温かな気持ちも消えてなくなってしまうんだろうか?
腕の中にいるのは鶴松でその体温を感じているこの夜が続け、と思う反面。
朝が来て鶴松の寝顔を見たい、腕の中にいるのは確かに愛する鶴松なのだと確認したい気持ちとがせめぎ合う夜だった。
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