アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
紡がれる唄
-
染芳は野乃助を伴って菓子を持って小志乃の家へと向かっていた。
今日は小志乃の家で唄会である。
「染芳は長唄を習っていたのかい?」
「家では能などを齧っていたがな。湯屋に行くと義太夫がやっているのを聞いておぼえてしまったな」
武士の習い事としてメジャーだった能を染芳は挙げたが、染芳の聞いていた湯屋の二階で催されていた義太夫の唄は厳密的に言うと長唄ではない。
浄瑠璃の方のもので語りが多いものである。
どちらも三味線を使うが種類も違う。
長唄は現代で言うところの多種多様のJPOPとするなら義太夫の方は語りのフォークソング、ラップ?と言った感じだろうか。
野乃助は染芳が言っているのは長唄じゃない方だと分かっていたが、
「そうか。染芳も町人の生活に慣れて来ているんだな」
と相槌を打った。
現代で言えば人形浄瑠璃の三味線と歌、歌舞伎の三味線や歌とどう違うのか、という違いは曖昧かもしれないが、兄弟のようなものだが違う物である。
説明が長くなるのでこの二人の今向かおうとしている長唄の方だけの歴史を見るが、男色と歌舞伎の歴史も見て行くことが出来る。
長唄は江戸で歌舞伎舞踊専用の伴奏音楽として誕生し発展した三味線音楽で歌舞伎の初期の頃に存在した「踊歌」と元禄期(1688~1704年)頃に江戸に伝わった「上方長唄」の2つを母体として各種の音曲の曲節を摂取しつつ、享保年間(1716~1736年)に長編で物語性を有する「長唄」が誕生したと言われている。
17世紀初頭に興(おこ)った阿国(おくに)歌舞伎の頃、踊歌の伴奏音楽は能楽の4拍子のみだった。
阿国(おくに)歌舞伎と言えば聞いたことがあるだろうか。出雲の阿国とかは聞いたりしたことがあるかもしれない。
戦災による荒れ果てた寺社の復興の為、寄進を集める為の踊りの興業が始まりのようだが、官能的な踊りで行脚(あんぎゃ)をしつつ、売春をしていたという説がある。
元々、女性の最初に生まれた最古の職業が巫女と言われているが、売春などをするものであった為実際そのように売春もしていた可能性は高い。その後に続く女歌舞伎(遊女歌舞伎)でも説明するが歌舞伎の元祖も最盛期も売春と密接に関わるのである。
売春と言うだけで今現代の見方でとらえるとそれは男尊女卑の差別的な解釈をされがちな内容ではあるが今現代の視点で当時を見るのはナンセンスな上に正しい時代考証とは言えない。それは事実としてあったかもしれない位に留めて頂くのがよろしいかと思う。
三味線が使用されるようになったのは1615年~1630年頃に最盛期となった「女歌舞伎(遊女歌舞伎)」の時である。
そちらがあまりにもセクシー過ぎる、売春など風紀の乱れになる!!と幕府がお達しを出し、1629年の遊女歌舞伎の禁止により女性が舞台に立つのダメ!!となってしまうわけだが
「じゃあ男ならいいでしょ?」
と、結局やっていたことは同じ売春である女のような格好をし化粧をした美少年軍団の「若衆歌舞伎」が興(おこ)るわけである。
その若衆歌舞伎の時代、三味線の地位が主奏楽器として確立されるのに伴って今日と同じような基礎形態に整えられたというので長唄は歌舞伎の歴史と密接に関わりつつ発展してきたと言える。
「長唄」の名称が初めて登場するのは18世紀初頭のことで、それまで存在した上方長唄に対して「江戸長唄」とも呼ばれるが、本来的にはこれが正式名称である。
歌舞伎は元々女性の物だったのが今現在のように男性だけの世界になったのにはこういういきさつがあるわけだが、今で言えば宝塚歌劇団の美少年だけ版の若衆歌舞伎の隆盛に伴ってまたもや幕府に「ダメ、絶対」とまたもやセクシー過ぎる、風紀を乱すとお達しが出て舞台に立つ人間の年齢制限などを設けて美少年たちが化粧を施して女性のように舞台に立つことが廃止されるわけだが、江戸の町民の性欲まで禁止するわけには行かず幕府は吉原を作ったり、陰間茶屋などが出来るわけである。
野乃助や美坂野は幼少期から陰間として働いていたこともあり、その辺りの芸事に関しては精通していた。
ただ春を売るだけではなく、芸を磨いていたというのもあるしそういう歴史背景もあり唄も歌え三味線を鳴らすということも手ほどきを受けていたのである。
「野乃助は三味線を弾いたり唄も歌えるのだな」
と野乃助をまぶしそうに見つめる染芳に野乃助は顔が上気する。
「習っていたという程ではないがなんとなく覚えたのだ」
陰間として踊ったり、唄を歌ったりしていたとは言わなかった。
体を売るだけではない。
芸も売ったのだ。
陰間の方が花魁(おいらん)程ではないが遊女を買うより高くつく時代だ。
お客もそれなりの客層だ。
だから体だけではなく付加価値として芸事も出来る、所作や礼儀作法も売れる為に身に付けただけのこと。野乃助だけではなく美坂野もそうだ。
野乃助自身は美坂野のように芸事の世界には入らなかったがあの頃の陰間の仲間内はそちらの方面に行った者もいれば、お武家の家に使用人という名の下に入った者もいる。全く行方が分からない者もいる。
野乃助は染芳と一緒に歩く道中で昔の仲間たちのことをふっと思い出していた。
みんなどうしているだろうか。
幸せなんだろうか。
「どうした、野乃助」
「どうもしていない。さあ、美坂野と鶴松が到着しているかもしれない。急ごう」
小志乃の家に到着した時はまだ美坂野も鶴松も到着はしていなかった。
ちょうど小志乃は女の子に長唄の手ほどきを終えて女の子が家を出るところだった。
入れ違いに入って来た野乃助と染芳を見て女の子はぼーっとすると顔を上気させて
「ではまた明日でございます!!」
と慌てて飛び出して行った。
「やはり子供とは言え女子(おなご)ですね。二人の色香にあてられたようです」
と小志乃は笑って二人を迎え入れた。
小志乃の長唄教室に通うのは下心のある親爺ばかりではない。
小志乃のように女性が活躍出来る職業として習字・三味線・琴・長唄などの音曲、茶道・生け花などがあるが、武家の出で武家の妻でもあり夫に先立たれてしまった小志乃にはそれから身についた裁縫や礼儀作法なども教えられたので、親は安心して女子を女師匠である小志乃に預けていた。
江戸時代後期の本である守貞漫稿(もりさだまんこう)に寄れば、
「江戸は小民の子と雖(いへど)も、必ず一芸を持って武家に仕えしめざれば良縁を結ぶに難(かた)く、一芸を学ざれば武家に仕えること難し」
とあるので女子が大店で仕事をしたり武家の家に働きに出たりする為には女子に習い事をさせるのが良家に嫁(とつ)いだり、良い働き口に入る為に必須だったようである。
その辺りは今現代の就職活動と似ているかもしれない。
資格が物を言う時代は昔からなのである。
当時の女子の憧れの働き口、大奥にはさらに家柄とコネが必要になるので今現代で言えばテレビ局の女子アナウンサーみたいな花形職業と言えば分かりやすいだろうか。
大奥で女中として入れれば、大奥の職場を引退した後、良縁確実。
大奥で働いた、それだけで箔(はく)がつくのである。
将軍のお目に止まればさらにそれ以上。当時の女性の最高の職場なのである。
そんな良縁の為と、良い職場を見つける為に小志乃のところには幼少から結婚前の娘まで女子も多くいた。
「鶴松たちはまだ来ていないのですね」
「ええ。野乃さん、ご飯の準備はしていますが若さんや美坂野さんたちが来てからでいいかしら」
「勿論です。わざわざ飯まで準備してくれたのですね」
「ええ、素敵な男性が4人もお越しいただくのですからそれなりの準備を」
と小志乃は笑う。
染芳がいつのタイミングで出そうかと持っていたお菓子に小志乃は気付き
「まぁ。これは。お高かったでしょう?」
と染芳に声をかけた。
「いえ、これを唄会の途中にでも食べましょう」
と手渡した。
小志乃は染芳と野乃助を交互に見た。
「どうしました、小志乃さん。そんなにジロジロ見て」
と野乃助は問うた。
「お二人共目がお優しくなりましたわね」
「?」
染芳が小志乃の言葉に頭をひねる。
「おだやかな目をしていらっしゃるわ」
小志乃は優しく微笑む。
俺たちがねんごろになったのを気付いているのだろうと野乃助は無言で微笑み返した。
染芳は隣で微笑み合う二人に分からず「ん?ん?」という顔をしていたがそういう機微には疎(うと)いのであろう。
人は誰かを一度でも愛したことがある人間ならば。
そういう想いは口に出さずとも伝わるものだ。
俺はお白粉だけ売ってたわけじゃなくそういう物も売っていた。
だから客がついたんだろう。
心も通わせたから贔屓(ひいき)客がついた。
染芳と契ったあの夜から女性にも体を売ることは辞めていた。
それでも客は切れずに今でも紅とお白粉を買ってくれる。
勘違いしていたのだ。
俺はこの外見と体だけだと思っていた。
気付くのが遅かったなあ。
今までの過去を野乃助は後悔はしていなかった。
今この時、この一瞬を感じられているとしたならそれも悪くない。
隣に染芳がいるのだから。
野乃助は染芳に向けて、そして過去から未来への唄を歌おうと思っていた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
24 / 80