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生まれて来る唄
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美坂野は鶴松のいる離れに鶴松を迎えに行った。
「鶴松いるかい?」
「うん!!」
元気な声と共に鶴松が風呂敷を背負って飛び出して来た。
「そりゃなんだ?大きな風呂敷背負(しょ)ってるな」
「これ茶器だよ。小志乃さんのところでお茶しようと思って。お菓子も買って来たんだ」
「そうか。鶴松がお茶を点(た)ててくれるのかい?」
「うん!!お水も持って来たんだ。おいしいお水買って来た!!」
「そうかい。重いだろう。俺が持とう」
美坂野は鶴松の荷物を背中から降ろさせて自分の背中に背負った。
鶴松が歩くたびに鈴の音が響いた。
「鶴松、鈴を付けているのかい?」
「うん。千代吉姐さんが幸せになるお守りだよ、ってくれたんだ」
鶴松は腰にぶら下げている巾着についている鈴を美坂野に見せた。
千代吉め。何か企んでやがるのか?
と美坂野は咄嗟(とっさ)に思った。
千代吉の髪だろう、寄り紐に髪が巻き込んである。
今度千代吉に会いに行って聞いてやろう、どんな呪(まじな)いかけやがった、と。
先を歩く鶴松は夕刻時で川べりに出ている屋台を覗き込みながらニコニコしつつ歩いていた。
「なあ、鶴松」
「なにー?」
「花火一緒に見に行かねーか」
「あー。もうそろそろ花火だねえ」
夏の風物詩の花火がある日が近づいていた。
「鶴松、船を押さえておくから船の上から花火を見よう」
「えー?船とると高いよー。土手とかで寝っ転がってでいいよー」
「船の上からの花火は見たことあるかい?」
「ううん、ない」
「いいぞ。風流さ。船の屋台も出る。酒も飯も船の上で花火を見ながら飲み食い出来る。川に映る花火もそりゃもう綺麗さ。世界が花火だけになるのさ」
「へぇー。楽しそうだね」
「だろう?だから空けといてくれ」
美坂野はその日もパトロンたちから遊びと花火の誘いがたくさんあったが全て断っていた。
そんな大事な日は。
大事なやつといたい。
昔も今も人は同じなのである。
花火は侘びと寂がある。
一瞬の輝きと一抹の寂しさ。
こんなことをしたり考えたりしたところで想いが届かなければ無意味かもしれないと鶴松の歩く後姿を見ながら思う。
鶴松は女を娶(めと)っていずれは家族を作る。
こんな憂鬱な気持ちも花火と一緒に吹き飛んじまえばいいのになぁ。
夕暮れ時の川べりを二人で歩く。
強く刻みこんでおけばいいのだろうか。
鶴松との一瞬を強く刻みこんでおけばこんなクサクサした気持ち。
無くなるんだろうか。
鶴松に長唄を教えている小志乃は夫を亡くして一人で生きているが。
言い寄る男たちを全く相手にもしてない。
小志乃は一人で飯を食って。一人で床に入って。
一人だ。
寂しくねぇんだろうか。
鶴松は生きているが。
俺は一人じゃないのに寂しい。
なんでだ。
なんで俺は寂しいんだ。
「美坂野兄ちゃんはどんな唄歌うー?」
「そうだな。ついてから考えらぁ」
何も考えていなかった。
ただ、あることだけは決めていた。
小志乃に聞いてみよう。
この寂しさはなんだ?と。
小志乃は寂しくねぇのか?と。
「鶴松は何を歌うんだい?勧進帳とかか?」
「ううん。自分の思ったように唄う」
「どういうことだ?」
「小志乃さんがね、決まった曲ではなくその場に応じて歌おうってー。その時の心持ちとかを唄にして即興で歌いましょうってー」
「そうなのか」
長唄には決まった題目がある。
勧進帳や鷺(さぎ)娘など多数あるが小志乃はそれらではなく三味線を即興で弾き、唄を作ることを提案していたのである。
「楽しみだねー」
「そうか。面白い趣向だな」
俺の口から紡(つむ)がれる唄は。
恋した鶴松への唄か。
それとも。
この世を、世間を恨む呪いの唄か。
どんな唄が俺から生まれて来るのだろうか。
その時の美坂野は分からなかった。
「わぁー。今日も夕陽綺麗だねぇ」
鶴松が指差した方向を見ると川に映る夕陽と落ちようとする夕陽が世界を橙(だいだい)色に染めていた。
夕陽の向こう側に雲がたなびいていた。
どの浮世絵よりも綺麗だ。
鶴松の隣に立って二人で夕陽を眺めていた。
あの日の夜。
鶴松を抱きたかったが抱けなかった。
抱きたい気持ちでいっぱいだったのに、抱き締められて眠っている鶴松の寝姿を見ているだけで満たされた。
「さぁ、鶴松遅れるから行こうか」
「うん」
名残惜しそうにもたついている鶴松の手をとる。
手をつないで歩く。
道を夕陽に照らされながら歩く。
ああ、あの時。
美坂野は子供の頃のことを思い出した。
おっ母が手をつないでこんな風に夕陽の下を歩いていた。
今まで食べることがなかった屋台のウナギを買ってくれた。
手軽な食べ物である天麩羅やウナギの屋台すら買えない位貧乏な家だった。
おっ母がウナギを俺の分だけ買ってくれて食べている時に、おっ母はつないでいないもう片方の袖で顔を何度も拭っていたが。
男に交じって雑用の力仕事で汚れた顔を拭ってたんじゃねぇや。
泣いていたんだな。
俺を人買いに売らざるを得なかったから泣いていたんだな。
つないでいた鶴松の手のぬくもりがあの時の母の手のぬくもりを思い出させた。
「鶴松、ありがとよ」
「何が?って美坂野兄ちゃん泣いてるの!?」
「ああ、夕陽が綺麗でなぁ。見てたら涙が出てくらぁ」
「うーん?千代吉姐さんも煙草で目が染みて泣いていたけど。美坂野兄ちゃんも夕陽が染みて涙流れるんだね。うーん、世界って涙であふれてるの?」
「違ぇーよ。温(ぬく)もりであふれてんのさ。だから涙が流れんだ」
「うーん?」
千代吉が言うように悪い世の中じゃねぇのかもしれない。
この温もりがまだある内は。
美坂野は唄会で歌う唄が頭に浮かんできていた。
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