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菩薩
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染芳と野乃助は小志乃の家に既に着いていた。
「遅れてすまねぇな」
「お待たせー」
鶴松と美坂野は小志乃の部屋に上がる。
「まぁ。美坂野さん、その風呂敷は?」
「鶴松がお茶点ててくれるんだとよ、茶器と水が入ってるらしい」
「うん!!」
時刻は夕刻時。
この時間帯には湯屋の2階からもそこそこ裕福な家からも音が流れていた。
各家から艶(あで)やかな声や三味線の音が響く。
腰かけを路上に出して碁盤や将棋を打つ者もいる。
夕涼みをしながらそれぞれが夜になるまでのひと時を楽しんでいる時間だった。
江戸時代には手習いで長唄を習う者もいたし、お座敷長唄というように長唄は庶民の娯楽となる時代もあった。
「さぁ、まずはお食事を準備していますからどうぞ」
到着したところですぐに飯が出て来た。
「一人で食事をするよりもこうやって膳を囲むのは楽しいですね」
小志乃は箸を置いてニコリと笑った。
「いつも買ってるからなぁ。たまには温かい飯もいいな」
「小志乃さん旨いですよ」
美坂野と野乃助はそう小志乃に声をかける。
飯を終え、三味線を弾ける鶴松と小志乃と野乃助、染芳は三味線を構える。
今で言うチューニング、セッションのようにお互いの音を合わせる。
まずは染芳が最初に唄う順番の為、染芳が声を出しその声に三味線の音を合わせた。
染芳の朗々と響く低音にまず最初に音が合ったのが野乃助だった。
野乃助の音は両隣にいる美坂野と小志乃に伝染する。
一人音合わせに四苦八苦していた鶴松に気付いた美坂野が隣で一際大きく弦を弾く。
それに追随するように鶴松が弦を弾く。
美坂野が鳴らし鶴松が鳴らす。
それを繰り返している内にその振動が伝染するように鶴松の音が美坂野の音と同調し合った。
音を合わせるということは心を合わせるということ。
「さぁ、参りましょうか」
と小志乃さんの言葉で唄は始まった。
染芳は緊張の面持ちで言葉を紡ぎ出した。
その音程とリズムに合わせて美坂野、鶴松、野乃助、小志乃が自由に音階を取りながら伴奏をする。
染芳の唄に同調を示した野乃助の三味線の音色に気付いた小志乃と美坂野はすぐさま野乃助に合わせ、鶴松も三人に気付いて遅れて同調した。
能をたしなんでいた染芳らしい響く朗々とした声である。
染芳の唄はこんな唄だった。
薄紫色のたなびく雲の中で惑いし所に、ひとすじの光明ありてそこで菩薩に会った。
菩薩に導かれたところは今までの世界とは違う場所で俺は戸惑った。
それでも菩薩が手を握り締めてくれているのでその手にすがりたく思う。
そんな物語を唄に込める染芳は野乃助をじっと見つめていた。
その染芳の視線を真っすぐに受けてただ三味線を合わせる野乃助。
二人の視線に美坂野、小志乃、鶴松は気付いていた。
自己主張しないように三人は野乃助と染芳の唄と音に合わせる。
染芳の唄が終わった後、野乃助は伴奏を続けそのまま唄を返した。
今で言うアンサーソング。返歌である。
染芳は拳を握り堅苦しい正座の姿勢でその野乃助の声に耳を傾けた。
美坂野、小志乃と鶴松はすぐさま意を介して野乃助の声と三味線に合わせる。
鶴松が先に同調した。
勘の良い小志乃と美坂野よりも早く音を合わせた鶴松に二人は驚きながらもそれに習う。
雲の中で一人の男に会ったのだ。今まで菩薩と言われたくさんの者たちに崇められたとしてもそばにいて欲しいのは一人だけ。同じように惑っていたその男だけ。
その握り締めた私の手が涙で濡れていたのは気付いただろうか?
救われたのも、寄りかかったのも実は私だ。
唄が終わり美坂野、鶴松、小志乃が少しずつ音をフェードアウトさせて抜けて行き、締めの音を野乃助が掻き鳴らした。
一瞬の静けさ。
近隣の音も止んでいた。
どの家もその音と声に聞き惚れていたのである。
これは恋唄。
誰が聞いても分かった。
「お二人共いい声です。即興でよくそこまで」
小志乃は感嘆していた。
「いえ、そんな。みんなの音に合わせていたら声がよく通った」
と染芳は頭を掻く。
「まぁ、俺ら長唄の師匠に、一流芸役者に、仕込まれて来た鶴松と野乃助という名手だしなあ。そりゃ唄うやつも気持ちよかったろう」
「そうだな。なかなかに気持ちよかった」
美坂野の言葉に野乃助は笑顔で返して染芳を見た。
熱のある視線で染芳を見つめる野乃助に染芳が頬を緩(ゆる)ませる。
「俺たち邪魔かね?」
「な・何を言うか!!」
美坂野が茶化すように言うと染芳は顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
小志乃はフフッと笑う。
鶴松は一人、「うーん、うーん」と悩んでいた。
「どうしたの?若さん」
「僕どんな唄にしよう」
「まだ考え中ですのね。じゃあ若さんを最後の順番にしましょう」
一旦そこで休憩を入れた。
美坂野の提案だったが、鶴松と美坂野は厠(かわや)へ向かい、小志乃は染芳たちにもらったお茶菓子の準備と膳の片付けをすると言って、障子を閉めて染芳と野乃助を二人きりにした。
気を利かせたのである。
染芳と野乃助は座敷に正座していたがどちらともなく無言で膝を突き合わせる距離まで近づいて手を取り合った。
「俺は菩薩じゃない」
「菩薩みたいなものだ」
「人だ。染芳と同じ人だ」
「そんなこと分かっている。だが菩薩だ」
「どうしたんだ?」
様子がおかしい。
野乃助は染芳の顔を覗き込む。
「もう知っているのであろう?俺の家が駄目なのも俺たち家族もお役目御免なのも」
野乃助の表情は凍りついた。
「分かっている。何日か前に手紙が来た。俺はもう武士じゃない」
染芳が野乃助を抱き締めた。
「もう何もない」
そう言って強く抱き締めて男泣きに泣く染芳を野乃助は抱き締め返した。
「そんなことはない」
野乃助は泣く染芳の背中をさすりながら何度もつぶやいた。
「そんなことはない」
ただ抱き合うことしか出来なかった。
野乃助も急な事態と染芳がもう知っていたことに狼狽(ろうばい)し、染芳は今まで固く口をつぐんでいた辛いことが溢れて来たのだろう。
涙と共に体全体を野乃助にぶつけるようにして抱き締めていた。
まだ二人は10代の男なのである。
いくら江戸時代とは言え、10代なのだ。
二人には重い出来事だった。
小志乃は手に掛けた障子の前で手を離し、そっと袖で涙を拭っていた。
鶴松と美坂野も時間を潰して戻っていたが染芳の大きな声は戻って来ていた鶴松と美坂野の耳にも届いていた。
「鶴松、もうちょい夕涼みで歩こうか」
「うん。やっぱり世界って涙で溢れてるんだね」
男泣きする染芳の号泣を聞きながら悲しくなったんだろう、鶴松は涙目で美坂野に問う。
「鶴松、それは違う」
「違う?」
「そうさ。それに染芳には菩薩がついてるじゃねーか」
「ううっ?」
いつも傍らに菩薩が染芳にはついてるから大丈夫さ、と美坂野は思っていた。
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