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憑きの落つる夜
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鶴松はニコニコしながら歌う。
先程まで怯え、泣き、震えていたのが嘘のような笑顔で歌い出す鶴松に一同呆気に取られつつ音を探りながら鶴松に同調した。
『春の風に怯えた季節に野の花に出会い 夏の暑い日に雨をしとどに降らせる小さな手に出会った 秋の葉が舞う日にあの人は音を伴って来て 冬の寒い日にあの人は暗い目で現れた
春風が強い日には野の花の清らかさを求め 夏の暑い日にはあの雨の涙を想い 秋の木枯らしにあの人の奏でる音を聴き 冬の寒い日には沈みゆく陽にあの人の顔を思い出す』
演奏する野乃助、美坂野、小志乃、染芳は自分たちのことを言っているのだと気付く。
それぞれが鶴松と初めて出会った日のことを想う。
『こんな素敵な気持ちを永遠にずっと続けることって出来るものなのかな?
いつもみんなの韻(いん)を感じてる。でもその韻が途切れたらどうなるんだろう?
この紡がれる韻は常世(とこよ)まで続くんだろうか?韻を失ってしまったらどうなるんだろう?
願わくば。この韻が途切れんことを。この韻さえ流れていれば震えなくてすむし、陽が昇るのを待ちわびなくても大丈夫なのだから』
鶴松からその場にいた人間への愛と信頼の唄である。
締めの鶴松の三味線が鳴り止んでシーンと静まり返った。
「とても素敵な唄ですわ、若さん」
「そうー?エヘヘヘ」
「ええ、返歌も出来ない程に。いえ、答えなど必要ないのですわ」
「うーん?」
小志乃に褒められてニコニコする鶴松の表情から紡がれたとは思えないような哀愁のある唄声と旋律だった。
「途切れねぇよ」
美坂野は言う。
「答えなんか出てるよ。途切れるわけがないよ、鶴松。これからも韻を紡いであげよう」
「うん!!」
野乃助の言葉に鶴松は喜ぶ。
美坂野は思う。
お互いに韻を紡いでいるのに、横で笑う鶴松がいるのにこの寂しさはなんだ。
小志乃に美坂野の視線が向く。
小志乃が首を傾けて美坂野を「なんです?」というような目で見る。
「小志乃師匠、俺の返歌を頼めるだろうか」
「ええ。私などでよければ。うまく返せるか分かりませんけれど」
「構わねえ。思ったように返してくれればいい」
そう言って美坂野は歌う。
慌てて鶴松は三味線を構えて美坂野から紡がれる韻に音を合わせる。
小志乃と野乃助、染芳もそれに倣(なら)う。
『願をかける星を俺は間違えたのではないだろうか 同じ青い空の下に生きてるっていうのに星は近くに見えているのに 手が届かない』
そこで美坂野は言葉が紡げなくなる。
小志乃と野乃助はすぐに気付く。
恋唄、片思いの唄であると。
本当に強く想ったら言葉なんか紡げなくなる。
美坂野は「うぐっ」とうなった後、言葉を紡ぐことが出来なくなった。
機転を利かせたのは小志乃だった。
すぐに唄をつなげ、返歌とした。
『星は平等に誰をも照らす 遠いあの人にも そしてそばに見えているあなたにも
おごれる者は自分の為に輝いて欲しいと言うけれど 欲すれば手が届かず 手放せば忘れられず 寂しさを募らせているのは あなたが強く想うから 人生とは天恵でもあるし災いでもある だからこの韻をあなたに届けよう
私たちはみんな同じ星の下で生きているのだからこの唄を届けよう
私は言葉を探って唄にしよう どこかであなたが振り向いたら そこに韻が 流れていますように その星があなたの元に駆けて流れる星となるように』
小志乃の返歌の巧みさに野乃助と鶴松は驚き、ズブの素人である染芳もその声と唄の響きに酔いしれた。
返歌をされた美坂野は俯(うつむ)き加減に笑っていた。
スッとしたのだ。
美坂野の中の物がすぅっと消えた。
「小志乃師匠、ありがとうございやす」
美坂野は三味線をわきに置いて姿勢を正してその場で頭を畳にすりつけて土下座した。
心が晴れた。
いや、心が祓(はら)われたと言うべきか。
美坂野の中の何かが溶けてなくなっていた。
美坂野の言葉に出来ない気持ちを瞬時に理解して返歌した小志乃への敬意である。
「いえいえ。恋は迷い路(じ)。真っすぐな道などありませんわ。道に迷って立ち止まり、そして泣きながら。人は正しい道を探し進もうとするのですわ」
まだ10代の三人に優しく語りかける小志乃に美坂野は心から感謝した。
鶴松はそのやり取りが分からず首を傾げている。
美坂野はチラッとそんな鶴松を見た。
小志乃は了解する。
美坂野の見ていた星はこんなにもそばにいたのか、と。
「あら、年増の女の言葉など参考になさらず。いい唄会でしたわね。今宵は月も出て、憑きも落ちる夜。粋じゃありませんか。酒の用意をしますのでどうぞおくつろぎを。明日は皆で千代吉様のところへ行くのですから酒で気運を高めましょう」
そう言って小志乃は座敷を出て行った。
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