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防衛本能
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鶴松は美坂野の家から与えられている自分の住む離れに帰り着いた。
今夜、江戸の町の怪異騒ぎの見回りをしようと美坂野から言われている。
そのことに鶴松は気分が高揚していた。
それと同時に。
唄会の時のことを思い出す。
あの時「ここにいていい」という内容を美坂野や野乃助に言われた。
陽がだんだんと落ちて来て、陰が差し始めた部屋に鶴松は寝っ転がる。
部屋の温度が冷たくなって行くのを感じた。
父様も母様もこう言った。
「いつか大事な役目の為、いつでもその身を捧げる為に生きよ」
「お前は他の者とは違う」
でも小志乃さんが
「私たちと同じです」と言った。
鶴松の中で。
何かが起きていた。
泣きながら言う母様の言葉も本当。
みんなの言う言葉も同じように嘘偽(うそいつわ)りの気持ちは感じられず。
なのに逆のことを言う。
母様も父様も姉様にも小さき頃よりそう言われて、離れを与えられていたから。
うーん。
鶴松は起き上がって昔からしたためている日記を読み返した。
鶴松は昔のことを想い出せなくなったりすることが多々あった。
だから日記を毎日何枚もしたためた。
この時、こう言われたとか。こんなことがあったと克明に綴っていた。
泣くよりも嘆くよりも思い出せないことに鶴松は怯えた。
あちらの家に行く時も日記は全部持って行っていいと言われていたので嬉しかった。
結婚してあちらの家に行くことに関しては。
迷いはなかった。後悔もない。ただ少しだけ怖かった。
みんなの言葉で鶴松の心の中の穏やかな水面に小さな波紋が起きていた。
その波紋が大きくなっている。
分からない。
みんな本当のことを言っているのに逆のことを言っている。
鶴松の中は静かに混乱する。
ずっと言われ続けて来たことをあの晩、全て否定された。
ただそれだけなのに何故あの時の言葉たちが絡みつくんだろう。
どうしてこんなに戸惑っているんだろう、悲しいんだろう。
日記を読み返して思い出す。
みんなの顔や想い出が泡のように浮かんで来てはまた消えて行く。
小志乃さんと唄を歌ったり。千代吉姐さんに毎朝会いに行って昨日あったことの報告をしたり。
野乃ちゃんと湯屋に行ったり。美坂野兄ちゃんに道でばったり会ってからかわれたり。染芳さんとお話したり。春ちゃんとご飯を食べたり双六(すごろく)したり。
それだけでよかった。
もう出来なくなるのに。
鶴松の体は拒絶を示した。
喉からううっと嗚咽が漏れる。鼻水と涙が流れる。
鶴松はそれに驚く。
どうして。
どうして泣いているんだろう。
ああ。
なんだこの気持ち。
忘れないように、日記にしたためた。
この気持ちを忘れないように。
手が震える。どうして震えるんだろう。
心とは逆に体が鶴松の気持ちを代弁するように反応する。
それは、鶴松の体なのに鶴松の体じゃないように反応した。
「どうして震えるの?」
鶴松はつぶやいて手を押さえて胸に持って来る。
震えは止まらず涙も鼻水もさっきから全然止まらない。
「どうして?」
胸が切なくきしむ。
日記を読み返すと。
記憶の中で変わらないみんなの笑顔が浮かぶ。
悲しいと思う感情が鶴松の中で生まれ出づる。
それと同時に鶴松は悟る。
みんなといたいんだ。
ここにいたい。
悟ると同時に鶴松の中の水面の波紋は支離滅裂に広がり大きな波となった。
「嫌だぁああああああ!!」
鶴松はひきつけを起こすように泣き叫んだ。
「嫌だぁあああああああ!!」
鶴松の泣き叫ぶ声は隣の大店にまで響いていた。
使用人たちが鶴松の部屋に慌てて飛び込んで来た。
「ど、どうしたんです!?」
鶴松には使用人たちの声が届いていなかった。
使用人たちと距離を取るように震え威嚇しながら泣き叫んで拒絶をした。
悲しい。
悲しい。
悲しい。
ここにいたい。
みんなといたい。
「取り押さえろ!!縄で縛れ!!」
「嫌だぁああああああ!!」
「気付け薬を持って来い!!」
「大旦那様と大奥様を呼べ!!祈祷の準備をしろ!!」
鶴松の中で起きていることを誰も理解はしていなかった。
人間として心の中で沸き起こった感情を爆発させた鶴松を。
彼らは獣のように咆哮し泣く鶴松を。
以前と同じく。
人間として見てはいなかった。
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