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人道
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千代吉は昨夜は泊まりの客を取らなかった。
「わっちゃあ(私は)今日は泊まりはダメさ」
取りつく島も無い花魁の言葉に常連客は残念そうにスゴスゴと仙吉楼を後にしていた。
「花魁。どうして今日は泊まりを取らないんだい?」
店の旦那が言う。
「今日は胸がシクシクと痛みます故(ゆえ)、休ませてくんなんし(くださいませ)」
「おお、それはいけない。部屋に薬を持って行かせよう」
「せわしのうおざんす(慌てなさるな)、眠ればようす(よござんす)」
旦那に仮病を使い、部屋に引きこもると千代吉は煙草を吸い込んだ。
鶴松は美坂野のところか。
「はぁー。美坂野手ぇだしちまってるだろうねぇ・・・・・」
鶴松は神様憑きの家の子、そういう子だと分かっていても。
我慢の出来ない美坂野は突っ走るだろう。
「まぁ、それで幸せならそれはそれでいいのかもね」
いばら道だよ、美坂野。それでもいいのかい?
千代吉は先見の明がある女性だった。
美坂野と鶴松が生きて行くには辛い時勢だろうと予想していたのだ。
「兎に角だ。あの二人を呼んで今後のことをきっちり仕込まないといけないねえ」
千代吉は階下の下男を禿(かむろ)に呼びに行かせて美坂野のところへと使いへやった。
春駒たちも夜鷹や陰間に金をばら撒いてうまくやってる。
もう江戸の町は怪異だらけだ。
若旦那衆も大名たちも・・・・・吉原に来る客足が減っている位、夜に出歩く人間がいなくなっている。
それは遊女たちの生きる糧を奪っていることになるのだけれど。
もう少し辛抱しておくれ。
心の中で吉原の人間たちに千代吉は謝った。
何があったかはよく知らないが蓮華王院まで加勢したと野乃助から聞いている。
うまくいっているんだろう。
それなのにあちきは。
なんでこんなにクサクサしてんのさ。
まんじりとしない夜を眠れずに千代吉は朝を迎えていた。
千代吉は朝陽に目を細めた。
その日も暑い日だった。
沼に沈みつつ振り返ったお絹ちゃんの優しかった笑顔が脳裏に甦る。
あの笑顔はどういう意味だったんだろう。
「千代吉姐さん、若さんと美坂野様がいらっしゃいました」
「通しておくれ」
程なくして美坂野と鶴松が二人揃って入って来た。
千代吉は無言で鶴松と美坂野を見る。
その沈黙に耐えきれなくなって美坂野が言葉を発する。
「何をジロジロ見てやがる」
ジロリと美坂野を千代吉はねめつける。
「だらしなく開いた口を閉じな、美坂野。あんた頬が緩みっ放しだよ。気色悪い」
「なんだと!?」
「鶴松、美坂野と寝たのかい?」
「うん」
目をそらさず鶴松は力強く頷いた。
いい顔してるじゃないか。
一点の曇りもない。
お前は乗り越えるつもりだね、鶴松。
「そうかい。鶴松、もそっとこっちにおいで」
あたしは乗り越えられない。
鶴松はじりじりと千代吉ににじり寄った
その時。
鶴松は何が起こったのか分からなかった。
いい匂いがふわりと漂って赤い羽根に包まれたように見えた。
千代吉が鶴松を抱いて泣いていた。
「千代吉姐さん?」
「鶴松辛かっただろう。ごめんえ」
「なんで謝るの?」
「ごめんえ。許しておくれ。ごめんね」
鶴松が号泣する千代吉の頭をわけも分からず撫でていた。
「千代吉姐さん?泣かないで?どうしたの?」
「ごめんえ」
鶴松は千代吉が持つ過去を知らない。
千代吉は鶴松に謝ると同時にもう一人、常世(とこよ)にはいないもう一人に謝っていたのかもしれない。
鶴松はあやすように千代吉の頭を撫でていた。
泣いたり、笑ったり。
人ってこういう生き物なんだろう。
だから愛おしいんだろう。
目を瞑っても浮かび上がる人の気持ち。
それを感じられる心。
僕は。
人でいたいから美坂野兄ちゃんを拒まなかったんだろう。
僕自身も胸がチクリとしたその感情にすがったのだ。
時間が経てば風化するものなのかもしれないけれどあの時の美坂野の鼓動は僕がきっと人だと思わせてくれた。
ああ、僕生きてる。
僕も同じ早さで美坂野兄ちゃんと同じようにドクドク鳴ってる。
同じ音を刻んでる。
美坂野と同じように胸がチクリとしたのだ。
それが鶴松の恋の始まりだったのだろう。
そして僕を抱くようにして泣く千代吉姐さんを見て泣きたくなるこの気持ち。
千代吉姐さんを想う心。
誰かを想う心。
おもいやる。
想い遣(や)る、想いを遣(つか)わす。
言葉なくとも想いをお互いに遣わしその涙の意味を知るんだろう。
だから今僕は千代吉姐さんの悲しさが伝染してこんなに悲しいんだろう。
千代吉姐さんが何をこんなに悲しんでいるのかは僕には分からないけれど。
千代吉は袖で涙を拭う。
「さぁ、後もう少しだ。後もう少ししたら鶴松は江戸の生き神になる」
「え?」
「鶴松はただ美坂野たちと一緒に行動しているだけでいい。江戸の人間はいずれ鶴松を崇めるようになるだろう。美坂野、抜かりなくやりな。そうすればお前の願いも叶うよ」
「千代吉、てめぇは今さっきから何を言っているんだ?」
「その時が来たら分かるさ。あたしの願いも叶うといいけどね」
「何が?」
「なんでもないさ。鶴松行きな。あたしは寝るから」
千代吉は背中を向けて煙草をくゆらせた。
涙で化粧の落ちた顔を見られたくなかったからだ。
「なんだってんだ、千代吉。てめぇおかしいぞ?」
「ここに来た時からあたしはもうおかしいのさ。もう行きな」
チリリンと鶴松のつけている鈴の音色が遠ざかる。
「お絹ちゃん、ごめんえ。今迎えに行くから待ってておくれ」
千代吉はそうつぶやくと胸を押さえて倒れた。
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