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野乃助の決意
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「野乃助か」
「はい」
傍らで心配そうに見ている野乃助を千代吉は見上げていた。
そうか、あたしは倒れたんだな。
「野乃助。他の人間は知っているのかい?」
「いえまだ言ってません」
「言うんじゃないよ」
「はい」
千代吉の強情なところは野乃助は知っていた。
だから言わないと嘘でも返事をしたのだ。
「千代吉姐さん、心の臓が・・・・何故薬断ちをしたんです?」
「何かを求めるなら何かを捨てなければいけない。家光公大病の折に春日局も薬断ちをして神仏に願を掛け家光公の窮地を救った。どんな病気をしても一生薬は飲まなかった。あたしも真似しただけさ」
「鶴松の為にですか?」
「そうだね。あたしの為でもあるのさ」
千代吉は心臓が弱く薬を飲んでいた。
それを鶴松の身の保護と全てがうまくいくようにと計画を立てたその日から薬断ちをし神仏に願をかけたのだ。
「神様が救う人間を間違えないように鈴をチリンチリン鳴らす者を、鶴松を助けて下さいってね。計画を立てる前に鈴をくくりつけてよかった。遊女の呪(まじな)いなんかよりもうまくいってるじゃないか。神様に願掛けしただけあった。薬を断っただけあるねぇ」
「駄目ですよ。薬を飲まないと姐さんが・・・・」
「もう疲れたのさ。こんな遊女の命で誰かが助かるなら捨てたもんじゃないねえ」
千代吉は寝たままの状態で微笑んだ。
「春駒に金を渡してましたね?」
「春駒がしゃべったのかい?」
「いえ、気付いたのです。俺たち以外に怪異のネタが増えている。他にしている奴らがいると」
「そうかい」
「その金は姐さんが年季奉公してこの吉原から出て行く為に必要な金でしょう」
「もういいんだよ。あたしは吉原から出なくていい」
千代吉は目をつぶる。
あたしだけ。
あたしだけ一人幸せにのうのうと生きているなんてずるいじゃないか。
千代吉の手元の金は全てなくなっていた。
「千代吉姐さん、身請けの話を全部断っているらしいですね。何故?この吉原から抜け出せるのに」
「旦那がしゃべったのかい?あの狸。あたしが倒れて金を稼ぐ駒が使いものにならなくなると思って愚痴りやがったんだろう?身請けされて一時的な大金もらうよりもずっと客を取り続けさせるのがいいと算段しやがったからあたしの言う通りに身請けを全部断ってたんだろうけど算段が外れて余程悔しいのかね」
言葉を続けるのがきつくて千代吉はいったん言葉を切る。
「はぁー。稼げなくなると思ってあの狸もあせっているんだろうね」
「千代吉姐さん、どうしてそこまで・・・・・腕のいい医者を連れて来ます」
「医者雇うにも金がかかるのさ。いい腕の医者ならなおさら」
「ですがこのままでは・・・・」
「もう疲れたんだよ」
たまに里心ついて涙したのは全て一人のことを思ってのこと。
あの時お絹ちゃんは。
笑顔で死んだんだ。
あたしも笑いながら死にたい。
「もう夏も終わるねえ」
「・・・・・・・」
「もう思い出と生きるのは辛い」
鶴松を毎朝呼び付けて鶴松の話を聞くのは楽しかった。
この部屋から出て行けないあたしに外界のことを身振り手振りで笑顔で教えてくれる。
会ったことがなかった小志乃師匠や染芳のことや鶴松の毎日の出来事を聞くと。
心が和んだ。
鶴松の過去はあたしの過去でもある。
鶴松の話を聞くとまるであたしが経験して来たような夢を見れた。
今鶴松は。
自分の存在自体に揺らいでいる。
真実を知ってしまった今。
自分自身の存在に絶望しているに違いない。
それはあたしに対する冒涜(ぼうとく)だ。
鶴松の過去は全てほんとうのことだ。
それが家族の偽りのものだったとしても。
あたしもその過去を共有したんだ。
あたしの安らぎを、鶴松を潰させやしない。
あたしは散ってもいい花。
鶴松の存在を揺るがすものがあるなら。
あたしは鶴松の為に人柱(じんちゅう)になろうじゃないか。
あの時お絹ちゃんが笑って沼に沈んだように。
なんで笑ってたか分からなかった。
今、守りたい者が出来て分かった。
あの時お絹ちゃんはこう言ったんだ。
あの時お絹ちゃんがあたしを振り返って笑顔でこう言ったから。
「幸せになって」
お絹ちゃんは村という共同体と大人たちに人身御供という名の死罪に笑顔で応え、誰も憎まずあたしの幸せを願った。
あたしもその意志を継ぐ。
鶴松の未来の餞(はなむけ)にあたしの笑顔をあげよう。
鶴松の幸せを願う。
死んでもなおあの人はあたしに夢を見させてくれる。
千代吉の顔に笑みがこぼれたのを野乃助は見た。
「千代吉姐さん・・・・・」
「疲れたんだ。もう帰りな」
野乃助は目をつぶった千代吉を置いて仙吉楼を後にした。
当時の吉原の遊女は休みがほとんどない。
女性の生理現象で休みを要する時でも2日と休めなかった。
休むということはお金を稼げないということである。
だから遊女たちは無理をしてでも客を取り、体がボロボロの者が多かった。
性病も蔓延していた。性病や病気で客も取れなくなるほど精神と身体に異常をきたした者は生きたまま投げ込み寺に放置された。
生きたまま捨てたのである。
いくら花魁の千代吉とはいえ、何日も休めない。
それは千代吉も分かっているはずだ。
無理にでも客を取らされて死ぬ寸前までいったら生きたまま捨てられる。
それを分かっているはずなのにそれでいいと言語外で千代吉は言っていたのだ。
薬も飲まずそのまま休めるわけもなく、無理して客を取ってもっと苦しむだろう。
野乃助はそれが分かっていた。
だから止めなければいけない。
千代吉を助けなければいけないと心に誓った。
自分の身を呈してまで鶴松を救おうとする姿勢に野乃助は心揺さぶられたのだ。
なんとしても千代吉も救わなければ。
これは誰か一人でも犠牲になっては本当の意味の鶴松の幸せは来ないと野乃助は確信しているからだ。
「千代吉姐さんだけに重いもん背負(しょ)わせませんよ」
野乃助も千代吉と同じく動き出した。
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