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花魁道中
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千代吉の吉原抜けはしめやかに行われた。
花魁に出会えるのは大名や相当の金持ちだけで顔さえ知らない人間がほとんどである。
そんな花魁の千代吉の顔を見知っているのは客と花魁千代吉に個人的に付き合いのある者、吉原の通の旦那たち。
仙吉楼の前にお店の遊女たちや従業員が一同出ていることに一見の冷やかし客は皆不思議そうにしていた。
太陽が空にある内は店の表にすら出たことが千代吉はここ数年なかった。
日の光が千代吉にはまぶしかった。
透けるような白い肌が一際目立つ外見。
そして他の遊女にはない気品に吉原の通りを歩いている者は目を奪われる。
遊女たち一同が店の前に出ているその光景に行き交う人間たちは足を止めて見ていた。
「今までお世話になりんした」
「千代吉姐さん。お達者で」
「花魁!!」
まだ体調のすぐれない千代吉ではあったが傍らに立つ野乃助と美坂野に支えられるようにしていた。
千代吉は美坂野と野乃助の手をそっと払って一人で立った。
千代吉を少女の頃から見て来たお金にがめつい旦那も今までのことを思い返しているのだろう、涙目だった。
世話して来た遊女や禿(かむろ)たちに至っては涙で顔もぐしゃぐしゃだった。
「わちきみたいな者の為に泣いてくれてありがとうござりんした」
「姐さん、花魁道中位してもらってからでもいいじゃないですか!!」
遊女たちが口ぐちに花魁道中をしてから花道を作ってから、と言う。
花魁道中は金がかかる。
花魁道中はそのお店の権力の強さを見せつけるという側面もあったが千代吉はそれに頭を振った。
「やめなんし。わちきはもう吉原の花魁ではござりんせん。わちきがそれは好きいせん(好きではありません)。みんな今までありがとうござりんした」
深くお辞儀をする千代吉に仙吉楼の遊女従業員共々、急な別れを涙した。
千代吉がそれだけ遊女たちの妬み、嫉妬もない稀有(けう)な花魁だったということだろう。
皆に愛され、そして千代吉も同じ釜の飯を食べて来た仲間として生きて来たということだ。
吉原を抜ければもう会うことはない。
吉原の大門を外から中へくぐることはない。一生のお別れになるかもしれないことを全員分かっていた。
千代吉は病床の中で書いていた手紙を一人一人に渡す。
「結女は爪を噛むクセをやめなんし」
「はい」
「寿摩は客のことで泣いたりわめいたりは、こはばからしゅうありんす(ばからしいことです)。やめなんし」
一人一人に千代吉は声をかけながら手紙を渡して行く。
千代吉のやさしい声色の「やめなんし」に誰もが素直に頷く。
全員に声をかけて千代吉は背を向けた。
「千代吉姐さん!!」
「花魁!!」
遊女たちが泣き叫ぶのを背中に聞きながら千代吉は悲しくなって来た。
美坂野が肩を差し出した。
「てめぇ。お前の後輩や慕って来た遊女たちに最後にちゃんとお前の生き様見せねぇか。俺の肩貸してやる。ちゃんと見せてやれ」
美坂野の肩に千代吉は右手を添えて、自分のお付きだった禿(かむろ)たちが察して店の奥から高下駄を花魁の前に差し出した。
野乃助は禿から赤い傘を渡される。
千代吉はその黒の高下駄に履き替えると半円を描きながら足を運んだ。
その歩に合わせて美坂野も歩を進める。
野乃助は8の字に足を運び、赤い傘を千代吉に差した。
8の字は江戸時代には縁起数であり、幸福を呼び込むと言われていた。
今現在7が縁起数ではあるがそれは近年に作られた数字である。
花魁道中の足さばきに関しては当時を再現した花魁道中をいくつか見た限りでは、いろいろな足さばきがあるようではある。
この時の千代吉の足さばきは半円を描くように足を出し、そして上半身も一緒に足に合わせて大きく傾けひねりながら前を向く踊りのような姿を披露した。
一番難易度の高い足さばきと体勢での花魁道中である。
その艶やかな足さばきと背中に遊女、禿たちが涙しながら
「日本一!!」
「花魁千代吉姐さん!!」
「吉原一!!日本一!!」
と声をかける。
道行く人もその姿に見惚れた。
粋な男客が普段の着物姿で花魁道中をする千代吉に
「美人の花魁には錦(にしき)を」
と千代吉の肩に艶やかな錦織をかけた。
一歩一歩と進んでしばらくすると。
「美坂野、もういいだろう」
と千代吉は立ちどまった。
千代吉は履いていた高下駄を空にポーンと足を上げて放った。
高下駄は表を向いて落ちた。
「今日も吉原は大安でありんす!!」
と千代吉は泣きながら大声で叫んだ。
「大安でありんす!!」
当時遊女の間で下駄占いが流行していたのである。
下駄が表ならいいことが、裏なら。。。。。
今の子供たちもしているかどうかは分からないが当時からあったのである。
吉原に大安、平安なんてものはない。
吉原は苦界だ。
それでも千代吉は大安だと残る遊女たちにそう言い聞かせたのだった。
願いも込めて。
「千代吉姐さん、草履」
野乃助がもう片方の高下駄を脱がせて草履を履かせると千代吉は一度も後ろを振り返らずに泣きながら吉原の大門をくぐった。
背後では大門をくぐるまでずっと仙吉楼の者たちも道行く者も千代吉の背中を見ていた。
嬉しさよりも千代吉は悲しさが込み上げていた。
「幸せになって千代吉姐さん!!」
遊女たちの張り上げる声が聞こえた。
あの時と同じように。
お絹ちゃんにも言われた。
「あたしは幸せ者だ。ちくしょう、どうしてこんなに悲しいんだ」
涙が止まらない千代吉に美坂野は声をかけた。
「辛ぇー時よりも幸せな時の方が悲しいことだってあるさ」
千代吉は涙を肩にかけられた錦織で拭った。
悲しい。
それでも今は前に進もう。
お絹ちゃんも、遊女たちも幸せになれと背中を押してくれた。
ならば前に進まねば。
自分の部屋から見ていた四角い空が実はずっと先まで続いていたのを千代吉は知る。
「お天道様があんなに向こうにある。あれ、雲があんな形してる」
上を見ながら涙を止めようとする。
「吉原は内風呂だったからこれからは混浴の湯屋なんだろう?鶴松から聞いてる。嫌だね」
「俺たちが守りますよ。美坂野もね」
「おぅ」
「わたしは小さい頃には手伝いで竈(かまど)の火を起こしたこともあるが随分昔さ。飯も炊けないかもしれない」
「すぐ慣れますよ」
思い付く言葉を口から吐き出した。
悲しみに負けないように。
「さ、千代吉姐さん行きましょう」
野乃助と美坂野に手を取られて歩いた。
吉原を抜けたら花魁の称号も何もない。
庶民の生活も知らない。
溜息が出た。
「おい、千代吉。お前ぇ情けない顔してんな。いつものお前らしくねぇな」
「うるさい!!」
「鶴松が俺の家でお前を待ってる。早く行くぞ」
「鶴松・・・・・・・」
そうだった。
鶴松を最後の最後まで見届けなければ。
今は弱気になっている場合じゃないと千代吉は歩き慣れない江戸の町を歩いた。
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