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狂騒
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美坂野の家から出られない鶴松はじっと美坂野の家で昼間は動かず夜を待っていた。
木曽の話では今一人で鶴松が表に出るのは危険であると言う。
「もう少し待つのだ。今一人で出ればお前に向かって町民たちが殺到する。百鬼夜行のように押し寄せてお前を飲み込もうぞ」
鶴松は黙ってじっと美坂野の家にいた。
太陽の光が薄まって夜が訪れるのを待つのは辛くはなかった。
美坂野が劇のない時間は出来るだけ一緒にいようとしてくれたからだ。
鶴松は漠然とみんなが自分を助けてくれようとしているのは気付いていた。
それがうまく行っているのかどうかは鶴松は分からない。
みんなと辿りつける場所ならどこでもよかった。
もしみんながしていることがうまく行かなくて隣町の大店の座敷牢に入ることになっても。
もういいよ?
今が幸せでもう充分だった。
もう充分。
たくさんもらったからもう大丈夫。
鶴松はゆっくり立ち上がって美坂野の家の戸の前に立った。
「出てはいけない」
とみんなに言われているのは充分承知していた。
でも。もう。
これ以上みんなに守られるのも自分の為に迷惑をかけるのも嫌だった。
父様、母様に離れを与えられてぬくぬくと生温(なまぬる)く生きて来た自分を恥じる気持ちがあった。
何も見ていなかった。気付いていなかった。
今までのことが世迷言(よまいごと)、絵空事と涙したがそれは自分のせいだ。
気付かなかったのは自分のせい。
愚かだったのは自分。
心にぽっかり開いた穴を埋めてくれたのはまた同じように大切な想い出。
みんなの優しさと鶴松を救おうとしてくれる心。
もういい。
今の自分ならこの身を捧げてもいい。
一生分の価値のある想い出と気持ちをもらった。
自分はちゃんと愛されていた。
鶴松は戸に手をかけた。
ゆっくりと戸を開けた。
数日見ていなかったお天道様の光がよりまぶしく感じた。
通りを歩いていた町人や行商人が鶴松の姿を見て顔が驚いていた。
何かを口ぐちに言っている。
太陽の眩しさと夏の終わりの暑さの中で鶴松はそれが自分に向かって言っているのは分かった。
一瞬で鶴松は町人たちに囲まれた。
袖を引っ張られ、腕を引っ張られ、もみくちゃにされる。
誰かの伸ばした手が顔に、頭にあたる。
強く腕を引っ張られる。
袖が破けた。
どんどん人が増えて行く。
鶴松は一言もしゃべらず耐えた。
体の痛みと目の前で狂気の視線を鶴松に向ける町民たちに鶴松は涙がこぼれた。
目を閉じても止まらない涙。
鶴松はいつの間にか引きずり倒されて地に伏せていた。
それでも町民は興奮していて地に倒れて土埃の中、皆の足元で蹴られ踏まれ鶴松がボロボロになっていることに気付かずにいた。
鶴松は中心にいるんだろう、と何度も押し合いへし合い、そして鶴松を何度も踏みつけていた。
狂ったように騒ぐ声も音もまるで違う世界。
どこに自分が向かっているのかは分からないけれど。
このまま死ぬかもしれない。
体の痛みも遠のいて自分の意識が遠のくのを感じながら思った。
それでもよかった。充分満ち足りていたから。
みんなが自分の為に何かをしてくれようとしたこと。
美坂野兄ちゃんと愛し合ったこと。
自分を踏みつけていた足が止まる。
頭上で人の蠢(うごめ)くのがピタリと止んだ。
自分の上にいた人の波が割れた。
また太陽が鶴松に降り注ぐ。
腫れてしまってよく見開けない目で見上げる。
木曽が怒鳴っている。手には錫杖。それを振りかざして人を鶴松から遠ざけていた。
染芳が必死に腕を振り回して鬼の形相で人をなぎ払っていた。
小志乃が足を払い、腕を取って人を倒していた。
春駒が町民の足にしがみついて鶴松の顔と同じ高さの位置に顔があった。鶴松の方を見て泣いていた。
その背後に千代吉と美坂野と野乃助の姿が見えた。
「どきな」
千代吉のドスの聞いた声と威圧感に町民が動きを止めた。
美坂野と野乃助は千代吉の両隣で千代吉が歩みを進めると同じく歩みを進める。
そばにいた町民たちを美坂野と野乃助は何か怒鳴りながら殴りながら歩いていた。
千代吉は両隣で起きるその様子には眉尻を上げ下げもせず、表情を一つも変えず倒れている鶴松に向かって歩いて来た。
鶴松の前に千代吉は立つ。
「ち・・・ち・千代吉姐さん・・・・・」
「しゃべらなくていい」
千代吉は肩にかかった錦織で鶴松の傷や汚れや血や涙を拭く。
「小志乃師匠そして、そこにいらっしゃるのは蓮華王院様でいらっしゃいますか?春駒、染芳殿、鶴松を早く医者へ。急いで下さりませ」
「はい!!」
小志乃が走り寄って着物も擦り切れて傷だらけの鶴松を千代吉の錦織でくるんで染芳がおぶさりその前と両隣を木曽と春駒、小志乃が護衛しながら急ぎ足で駆け去って行った。
その後姿を千代吉は見ていたが、町民たちの方を振り返ってその場の全員をねめつけた。
「下賤(げせん)な者ども!!あたしは仙吉楼の元花魁千代吉!!何事か説明しやれ!!」
千代吉の剣幕に女も男もしどろもどろになる。
「説明しやれ!!」
千代吉は近くにいた町民の男の胸倉を掴んで揺さぶる。
町民たちも何故こんなことになったのかは分かっていなかった。
そこへ奉行所の人間が現れた。
その中には鶴賀もいた。
「奉行所の役人ども!!来るのが遅い!!鶴松がこの町民どもに殺されかけていたじゃないか!!この江戸の町を守ろうとしている鶴松をお前さんたちが殺そうとしていた。説明しやれ!!」
千代吉は胸倉を掴んでいた男を突き飛ばして今度は奉行所の人間に詰め寄る。
千代吉の剣幕に奉行所の人間はまず驚く。
町民たちの「あれが花魁千代吉」という声に目の前の美人が大名たちを客に、手玉に取る有名花魁千代吉だと気付く。
奉行所の人間からしたら千代吉は他の町民たちと同じというわけにはいかない。
それ程花魁のステータスは高かった。
千代吉に何かがあれば贔屓客の大名たちが黙ってはいない。
「そこにいらっしゃるは・・・・・仙吉楼の千代吉殿でいらっしゃいますか?」
「それがどうしたのさ?江戸の市井で町民がこのような乱痴気暴行騒ぎ、何事!!説明しやれ!!」
「い・今江戸の町では怪異がひ・頻発しており・・・・・江戸の町民たちも不安に過ごしている折(お)り。。。」
千代吉の剣幕と目の前の相手が花魁千代吉と知り、奉行所の人間はあたふたと答える。
「知っている!!それを鶴松が収めていると吉原でも評判になっている。その鶴松が何故お天道様の下で町民に嬲(なぶ)られていた!?答えよ!!答えによっては許さぬえ!!」
千代吉がいつの間に吉原を抜けたのかを奉行所の人間は知らなかった。
身請けしたのはどこの大名だ。
千代吉を身請けしたのは大名で今はその奥方、と頭から思っていた奉行所は答えに窮(きゅう)する。
奉行所の人間たちは勘違いしていたが、大名の奥方ではないとしても千代吉が一声上げれば大名たちが千代吉の為に尽力するのは分かっていた。
大名たちでさえ下座に座らせ、金を払っても気分が乗らなければ会うのすら拒否し、もし自分以外の遊女と大名が浮気、遊女につこうものならその大名の髷(まげ)さえ切ってしまっても吉原の中ではお咎(とが)めなしという位の権力があるのである。
答えようによっては一大事になる、と奉行所の人間も事を引き起こした町民も目の前の美人が
浮世絵でしか見たことの無い有名な花魁千代吉と知り、事の重大さに気付く。
千代吉の美しさに目を奪われる者もいる。鶴松を道の通りで鶴松に詰めかけていただけのはずが暴行していたのだ、と気付き震え出す者もいる。
狂乱が呼び寄せた不遇な出来ごとだった。
逃げ出そうとする者もいた。
「動きやるな!!」
千代吉の鋭(するど)い声と眼光に誰も動けずにいた。
千代吉は何が起きたかは察してはいたが決して許さなかった。
うつけ者どもが。
心神喪失で集団が引き寄せた不幸な出来事だったとしても。
絶対あたしは許さない。
「野乃助、美坂野。江戸屋敷の方へひとっ走りしておくれ。あたしの、千代吉の頼みごとだと」
「お・お待ちください!!」
江戸屋敷と言う言葉に奉行所の人間たちが慌てて叫んだ。
江戸屋敷と言えば藩の大名たちが住んでいる居住地区である。
そこへ人をやるということは。
大名を出してくると奉行所の人間も町民も震えた。
「何をぞ?」
「それは・・・・え・江戸屋敷へ人をやるのはお待ちください!!」
「だったら、早く裁きやれ!!この町の暴行を見過ごして何をぼけっと突っ立ってやがる!!早くひっ立てやれ!!」
「し・しかし・・・・・」
関わった町民の人数が多過ぎたのである。
お縄にかけるには人手も足りず、収容の問題もあった。また江戸の町から急にそれだけの町民がひっ立てられるとなると奉行所の人間もてんてこ舞いである。
千代吉は鶴賀と目が合う。
美坂野と野乃助から話は聞いていたので見た目からそれが鶴賀という与力だろうと千代吉は思った。
「お主、名前は何と申す?」
「鶴賀と申します」
「あたしはただの花魁だった者さ。人を裁くのはあたしらの仕事じゃない。あんたたちが仕事しないんならあたしはあたしのやり方でここを収めるよ。あんたたち奉行所の人間もどうなるかは知らない。それでもいいね?」
千代吉は脅しをかけた。
大名たちが出張(でば)って来たら。
町奉行如きのお前らどうなるか分かっているだろうね?と。
「千代吉殿、ここは我らにお任せ頂きたい。町民たちをすぐにひっ立てるのは難しく。全員住む場所と名前を控えさせて後ほど奉行所より処遇の沙汰を申しつけたいと思います。それで御勘弁頂きたい」
「だったら早くおし!!」
鶴賀の後ろに控えていた与力の部下の同心、与力たちは慌てて近くの町民たちに縄を打ちつつ、帳簿に名前や住所を聴取して書き始めた。
その騒ぎの中、鶴賀は千代吉に歩み寄る。
「千代吉殿、申し訳ござらん。鶴松は?」
「鶴松は医者に向かわせた。あんたが鶴賀殿か。あんたが悪いわけじゃない。でももう少し鶴松を警護して欲しかった」
「本当に申し訳ござらん。まさかかような事態が引き起こるとは」
「起こったことは仕方ない。あたしは鶴松が心配だから行くよ」
「はい、私はこの場がある故」
千代吉は踵(きびす)を返す。
「野乃助、美坂野は?」
「美坂野なら走って行きましたよ。多分鶴松のところに走ったんじゃないですかね?」
「そうかい、随分静かだねと思ったら。あたしらも行こう」
「はい」
千代吉はくるりと後ろを一度振り返って蔑(さげす)むような目をその場にいた者たちに向けた。
また前を向く。
あの時のやつらと同じだ。
千代吉はお絹ちゃんを人身御供にして「ああ、これで安心。豊作だ」と笑った村の人間たちの顔を思い出した。
人は何故こんなに残酷になれるのだ。
世の中の善し悪しが犯す罪の多さで判断されても。
社会そのものが罪だとするなら。
このバカげた神様憑きやら人の怖れる心がこんなことを許す社会なら。
一体誰が裁く?
千代吉はそんなことを思いながら鶴松の元へと急いだ。
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