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決意
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「鶴松起きたかい?」
「うん」
手探りで鶴松は眼鏡を探していた。
眼鏡は江戸時代は高級品であったし、鶴松のような町民が手に入れることが出来るものではなかった。お金持ちや大名クラスが手に入れる高級品である。
眼鏡を最初に日本に伝えたのは宣教師たちで一説には1549年に日本に渡って来たキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルではないかと言われている。
ザビエル以外の宣教師たちも日本に渡る際、大名への贈り物として持参しそれを聞きつけてヨーロッパから買い付けるということで少しずつ広まっていた。
日本で最初に作られたのは江戸時代でかざり玉を作っていた職人が真似て作ったのが最初である。
明治時代に政府の勅命により朝倉松五郎がヨーロッパで眼鏡作りを勉強し、機械と技術を持って帰国してから日本でも眼鏡が安く作られ一般にも普及していくのである。
鶴松は目が次第に悪くなり少し離れた人間の顔も判別出来なくなってしまっていた。
元来遺伝があったのかもしれない。
大枚をはたいて購入した眼鏡も鶴松の視力に合ったものではない。
それでもかけないよりはマシだった。
歪(ゆが)んだ世界でも見えないよりは。
「美坂野兄ちゃん・・・」
「明日には旅に出よう」
「でも・・・・・」
「楽しい旅になるぞ」
美坂野はここ最近舞台に立っていない。
鶴松の拍子木でなければ舞台には立たないと啖呵(たんか)を切って美坂野は舞台から降りてしまった。
鶴松の目が悪くなるのを「化け物の恨みを買ったからだろう」と言う口さがない者たちの言葉を信じて、鶴松に幕開けの拍子木を打たせるのを辞めさせるように言う舞台関係者に美坂野は啖呵を切ってそのまま舞台を降りたのである。
鶴松が拍子木を鳴らすと客が不気味がる。
化け物憑きの人間の拍子木なぞ・・・・と町民たちは口には出さないがそう思っていた。
鶴松は全てを理解していた。
迷惑をかけている。
美坂野も一緒に被害を被(こうむ)ることはない、と鶴松は出ずに美坂野だけ舞台に出ることを勧めたが
「お前は気にせず拍子木を叩け。俺は鶴松の拍子木でないのなら出ない」
と言う。
鶴松が拍子木を叩くと客足が減る。
舞台に出ているのは美坂野だけではない。
他の舞台役者もいる、小道具や舞台裏の人間だっている。
生活をしている者がいる。
客足が遠のいては皆が生活出来なくなる。
美坂野も心の内では苦しんでいた。
鶴松が身を引こうとするのを美坂野は拒んだ。
鶴松は何も悪くない。
かと言って俺と鶴松が出たら客足が。
美坂野は自分の身をひいた。
鶴松を愛するが故、二人で舞台から姿を消した。
しばらく二人で生活するだけの蓄えはある。
鶴松は表に出られなくなっている。
美坂野も出さないようにしていた。
何かと鶴松を見て噂する者もいる。
珍しい眼鏡をかけていることで余計に周囲が注目する。
鶴松といつも一緒にいる美坂野まで変な噂が流れ始めていた。
しばらく江戸を出よう。
そう鶴松に話したのはつい最近のことだ。
「ずっと前に旅に出ようと言ったじゃないか。なーに、楽しい旅になるさ。俺も暇が出来たしな」
「美坂野兄ちゃん・・・・・」
「なんてしょぼくれた顔してるんだ。明日から楽しい旅なんだぞ。鶴松も支度しとけよ」
「・・・・・・・・」
鶴松は自分のせいで美坂野が舞台から降りたのを知っていた。
役者は人気稼業だ。
表舞台から降りたらまた這い上がるのは難しい。
役者として名高い美坂野が舞台を降りても代わりに人気の出る役者はたくさんいる。
鶴松は美坂野が舞台を降りるのを止めてもらうように一度表に一人で出てみんなを訪ねて行こうとしたことがあった。
眼鏡をかけて外に出ると誰もが鶴松を見た。
近くに住んでいる小志乃の家を目指した。
美坂野の為に。
自分が言っても聞いてくれない。
誰かに止めて欲しい。
道中で鶴松は立ち止まった。
もし。
自分が小志乃の家に入って行くのをみんなが見たら今度は小志乃が。
鶴松は足が動かなくなった。
美坂野のように何か言われるようになったら。
それぞれが生活をしている。
小志乃の家も町民相手に長唄を教えている客商売だ。
もし自分のせいで小志乃にも迷惑をかけたら。
記憶の中の鶴松を助けてくれたみんなの笑顔が浮かぶ。
壊れるのを見たくない。
鶴松はそのまままた美坂野の家に帰り、何も出来ることがなくなっていた。
自分が消えるのが一番の方法なんだろう。
それを鶴松は分かっていた。
明日から美坂野は二人で江戸を離れようと言う。
でも。
美坂野兄ちゃん、江戸を離れて戻って来ても僕たちの居場所はもうなくなってるかもしれない。
美坂野兄ちゃん、舞台に戻れなくなってるかもしれない。
江戸を美坂野兄ちゃんは離れちゃいけない。
役者はずっと役者じゃないと一度舞台を離れたら戻れなくなっちゃう。
自分がそうさせているのなら。
僕が。
離れよう。
「美坂野兄ちゃん」
鶴松は美坂野を抱き締めた。
「どうしたい、鶴松」
「うん」
美坂野兄ちゃんがくれた想い出を。
抱き締めそして確かめた。
もうこの日々には帰らぬ。
最後にもう一度。
鶴松はある決意をしていた。
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