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幻想
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千代吉たちが美坂野の家に着く頃には日が傾き始めていた。
家の外で美坂野が大声で鶴松の名を呼んでいた。
「何かあったね。急ぐとしよう」
千代吉は裾を持って駆け出した。
慌てて鶴賀と小志乃が後を追う。
「どうした、美坂野」
「鶴松が!!いない!!」
美坂野が手に持っている手紙を千代吉に渡した。
「鶴松、馬鹿だねぇ」
手紙には全員に宛てて感謝の言葉を書いていた。
「いつからいないんだい?」
「明日から旅に出ると話しをしていた。準備で店に買い物に行っている間にいなくなった!!」
「どうしてそんなことになった?」
千代吉は美坂野から事情を聞く。
「そうかい、鶴松。自分から離れて行くつもりなんだね。可哀想なことをした」
「ち・千代吉さん!!急いで探しませんと!!」
小志乃が叫ぶ。
「鶴松、目が悪くなっていると聞いたが?眼鏡は?」
「置いて行っている!!」
「そんなに遠くまではいけないだろう。何も持って行ってないのかい?」
「家の物も金にも手を出していない」
「そうかい」
千代吉の声色に美坂野の顔はさっと青ざめる。
鶴賀に千代吉は顔を向ける。
「奉行所は手助けしてくれるかね?」
「もちろんです。人を出します」
鶴賀が走って行く。
「鶴松。辛かったねえ」
千代吉は美坂野と小志乃を見た。
一人で何も持たずにどこに行くっていうんだい、鶴松。
千代吉は美坂野の泣く姿を見ながら思った。
その頃。
鶴松はよく見えない地面をトボトボと歩いて足がもつれて転んだ。
膝小僧を摺って血が少しにじんだがまた起き上がって気にせず歩いた。
転ばないように俯き加減に歩く鶴松の背中を橙(だいだい)色の太陽が包んでいた。
暗くなりつつある道を人気のない方へ、方へと歩いて行く。
この道がどこに続いているのかは知らない。
誰もいない道をただ俯き加減で鶴松は歩けるだけ歩いた。
戻れない。
この道どこまで続くんだろう。
民家が無くなる。
江戸の町のはずれまで来ていた。
一歩一歩踏みしめると今までのことが思い起こされた。
懐かしい。
夕暮れに痛みを残して夜が訪れようとしていた。
帰り道はもうない。
帰れる場所もない。
どこまでも続く道をとぼとぼ歩く。
誰も自分の知らないところへ行けたら。
そこにはみんなはいないんだけど。
目まいがした。
不慣れな視界と歪む世界に吐き気が鶴松を襲う。
雨。
通り雨。
いつの間にか降り始めた雨に道端にあった地蔵尊の小さい社の中に肩を小さくすぼめて窮屈に鶴松の体を収めた。
泥水が跳ねて鶴松の着物を土色に変えて行く。
膝小僧を抱き抱えてしばらく座っていた。
右肩に石の地蔵尊があたっている。
美坂野兄ちゃんの体はこんなに固くないなあ。
こんなに冷たくないなあ。
温かったなあ。
鶴松の目にも顔にも雨が降る。
雨なのか涙なのかも分からない。
なんの為に生れて来た。
鶴松は自問する。
家族は自分を怖れ。
町民は自分を不気味がり。
愛する人たちは鶴松のせいで不幸になろうとしている。
心の中に出来た小さい綻(ほころ)びはじょじょに大きくなった。
静かな雨の音だけの中。
鶴松の心は解(ほつ)れていく。
鶴松の心を割いていった。
縋(すが)る者もいない。
意識が遠のく。
鶴松はハッとしてまた急(せ)き立てられるように歩き出した。
雨に濡れながら。
今までの想い出を追いかけるように、それが夢じゃなかったと思えるように。
歩いた。
足がマメだらけになっていた。
体の痛みがあれば現実にあったことだと思える。
もし寝て起きたら。
全部夢だった、なんてことになったら。
どうすればいい?
雨が止んだ。
繋(つな)ぎ止めたい。
全ての想い出を。
澄みきった夜空に星がまたたき始める。
夜空を見上げて鶴松の見ている空がぐらりと傾いた。
空が傾いているように鶴松には見えていたが傾いていたのは鶴松の体だった。
自分の見ている世界がぐらりと傾くのを見て鶴松は絶望する。
やっぱり。
自分の見ていた世界も想い出も全部夢だったのか、と。
そのまま抵抗出来ずに鶴松は地面に倒れた。
「美坂野兄ちゃん」
鶴松はそのまま起き上がれずに涙を流しながら意識を失った。
遠くで馬の鳴く声が聞こえた気がした。
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