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奇跡
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「染芳!!前だ!!」
「気付いている!!」
馬に乗った染芳と野乃助が前方で倒れている鶴松に気付く。
染芳が手綱を引く馬の後ろに野乃助はまたがり染芳の腰にしがみついていた。
馬が足を止めた瞬間に野乃助は手を離し飛び降りた。
先ほどの雨でぬかるんだ泥道を野乃助は駆ける。
染芳は近くの木に馬をつないで後を追った。
泥と雨に打たれてズタボロの鶴松のそばで野乃助は鶴松の安否を思い青ざめていた。
「大丈夫だ、息はある。だが・・・・すごい熱だ。民家のあるところまで行くぞ」
染芳が鶴松の脈を取り、野乃助に早口で言う。
だが。
馬に三人乗りは厳しい。
近くは野原が続く荒野である。
助けを求めようにも民家まで随分の距離があった。
「どうする。馬に乗せられるか?」
「そうだな、何か俺の体に鶴松を縛り付けられる物はあるか?俺の体に縛り付けて馬で駆けるが」
「残念ながらない。どうする?」
鶴松を探して四方に別れた者たちで馬を操れる者が鶴賀と染芳しかいなかった。
こちらの方面へは鶴賀は駆けてはおらず反対方面へ向かっているはずである。
これでは救援が来るのは難しい。
歩いて来れる距離ではない。
鶴松はずっと休まずひたすら歩いていたのだろう。
マメが出来てマメも潰れて血がにじんでいる鶴松の足を野乃助は布で拭いた。
鶴松の青白い顔を見て救援をどこかで悠長に待っている場合でもないのは分かる。
「俺を置いていっていい。鶴松を人のいるところまで連れて行ってくれ」
「駄目だ。野乃助、こんな場所に一人など。化け物、夜盗の類が出てもおかしくない。三人で行動するのが安全だ。何かがあってはいけない。鶴松を守りながらは俺も立ち回れない。お前もいるのだ、野乃助」
「だが・・・・・」
「鶴松を馬に」
染芳は決心した。
鶴松を馬の背に抱きつかせるように乗せた。
「野乃助、鶴松を背後から抱きしめるようにして乗れ。鶴松を馬から振り落とされないように抱きしめてやっていてくれ」
「分かった」
鶴松の上から野乃助が覆いかぶさるようにして馬の毛をしっかり掴む。
「よし行くぞ。あまり急いでは行けぬ。いいか、しっかり振り落とされないように鶴松を抱いていろ」
「分かった」
染芳の前で鶴松を抱くようにして支えている野乃助。
さらに野乃助を抱くような体勢を染芳も取る。
手綱をしっかりと染芳は握り締めると。
手綱をピシリとしならせた。
馬は三人の人間の重さに速度を出せないが前へと進み出す。
「鶴松、すまなかった。どうして俺たちを頼らなかった」
野乃助が鶴松の物言わぬ背中にしがみついて泣きながら言うのを染芳は聞いていた。
「迷惑がかかるとでも思ったのか。俺たちは友だろう。何故言わなかった」
「野乃助」
「帰ろう、みんなの元に帰ろう」
また雨が降り始めた。
冷たい雨が体温を奪って行く。
野乃助は鶴松を雨から守るように自分の体で鶴松を守る。
野乃助の手は震える程に強く馬の毛を掴んでいる。
鶴松も野乃助も振り落とされないようにする為、染芳は腋(ワキ)を締めて体の前にいる野乃助と鶴松を抱き抱えるように前屈みの姿勢のまま馬を走らせる。
「野乃助、民家が見えて来た。もう少しだ。頑張れ」
民家に到着して野乃助は降りると民家の戸を叩く。
「すまぬ、誰かいないか!?」
野乃助は声をかけたが誰も出て来る様子はない。
家の中から人の気配はしていた。
「怪しい者ではない!!江戸町奉行与力の染芳と申す!!お願いだ、病人がいる!!戸を開けてくれ!!」
戸がかすかに開く。
かすかに開いた戸から爺の顔が覗いていた。
染芳の格好を見て信用したのだろう、戸が開く。
「すまない、しばらく休ませてもらえないだろうか?」
染芳に抱かれた鶴松を見て爺は驚いた顔をする。
泥にまみれ青白く変色した鶴松の顔を見て爺は背後の暗がりに隠れていた婆の方を見た。
婆も夜盗や不審な来訪者ではないと気付き前へ進み出る。
「ささ、早く中へ。火のそばへ」
婆が火を起こしていたそばを指差す。
「かたじけない」
婆は火にかけていた湯に布をくぐらす。
爺はどこからかボロではあるが着物を持って来た。
鶴松の泥だらけの着物を脱がせ体を布で拭く。
「一体全体、どうされたのじゃ。町奉行の与力様がかような辺鄙(へんぴ)な場所までいらっしゃるとは。そしてこの者はどうしたのじゃ?」
「すまない、説明は後にしたい。この村に医者か薬師はおるか?」
「いや、おらなんだ」
鶴松の熱は全く引く様子はなく、火を起こしていても底冷えする寒さであった。
「染芳。皆の元まで馬で駆けてくれ。俺はここで鶴松を看(み)る」
「分かった。鶴松は任せるぞ」
野乃助は着物を脱ぐとフンドシ姿になる。
鶴松の体にかけられた着物を脱がせ鶴松の肌を地肌で温めた。その上から爺に渡された着物を二人の体にかける。
野乃助の大胆な行動と綺麗な肢体に爺と婆は目を丸くする。
染芳も驚く。
「何か・・・・筵(むしろ)でも藁(わら)でもいい。俺たちにかけてくれるものはないか」
「あぁ・・・・・・はい。持って来ましょうぞ」
「いきなり訪ねて来てかような醜態をさらしてすまない」
爺と婆は首を横にふる。
野乃助の真剣な視線とその目から流れる涙を見たら邪(よこし)まな気持ちなど湧くはずもない。
染芳は野乃助が泣きながら鶴松を抱き締めるのを見る。
そっと野乃助の頭を撫でて
「頼んだぞ」
と一言声をかけて染芳は外に出た。
染芳は雨の中馬を飛ばした。
助けねばならぬ。
野乃助の為にも助けねば。
野乃助の泣く姿に染芳も心を揺さぶられた。
あのような涙は見とうない。
「急ぐのだ!!」
手綱を強くしならせ馬を駆けさせた。
民家の中。
爺と婆は火を絶やさぬように火の番をしながら横たわる野乃助と鶴松を見ていた。
「鶴松、温かいだろう?」
鶴松の頬を撫でながら体をぴったりと密着させて野乃助は冷たい鶴松の体を温めた。
どれ位鶴松が雨に打たれて倒れていたのかは知らないが随分と冷たくなっていた。
医療が発達していない時代である。
怪我をすればすぐに破傷風になる怖れのある時代。
衛生面もよくなく、抗生物質もまだない時代である。
怪我ひとつで命を落としかねない時代であった。
傷だらけの体と発熱、そして青白い鶴松の顔に野乃助は心の中で死ぬなと念じていたのである。
「鶴松、すまない」
野乃助は涙を流しながら後悔した。
野乃助は染芳との新しい生活ばかりだった。
鶴松のことを見捨ててしまっていたのだな、と気付いたからだ。
鶴松がここまで追い詰められているのを誰も気付かなかった。
目が見えなくなる病にかかっているのも。
町民たちの態度がどう変わっていたのかも。
美坂野との生活の変化も。
自分たちのことだけを見て鶴松を見捨ててしまっていた。
「大丈夫。これは病気平癒と魔除けに効くというありがたいお札じゃ。その寝ている者によっく似ておる。これを抱いて寝れば大丈夫じゃ。神様が守ってくれる」
婆が懐から出した札は。
鶴松を生き神にする為に野乃助たちが作らせた札だった。
「そうだな」
野乃助は腕を伸ばして札を受け取り鶴松の手に持たせてぎゅっとその手を握り締めた。
神はここに。
俺たちが作った神がここに。
誰よりも鶴松を信じた俺らがいるのだ。
鶴松を神にした俺たちがまだいるのだ。
神は。
この爺や婆のように信じる者がいる内は。
祀(まつ)り上げた俺たちがいる間は。
神は消えてはいかぬ。消えられぬのだ。
それが道理。
だから鶴松をもう一度。
もう一度。
野乃助は強く抱き締めた。
「神が先に消滅してどうする、鶴松。お前は俺たちの神ぞ。戻って来い」
鶴松の生き神としての力が弱まっているというのなら。
江戸の町が鶴松を排除しようとしているのなら。
もう一度奇跡を。
野乃助はそう願いつつ鶴松の体を温め続けた。
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