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昼頃。
依里小路は数名のお伴を連れて大名屋敷に現れた。
玄関の方で人のざわつく声がする。
来たんだろう。
千代吉と美坂野は門へと急ぎ、一行の姿が見えた途端その場に平伏した。
「よ・依里小路殿、こちらへ急なお呼び立て・・・・」
「御無沙汰しております」
大名の上ずった声を柔らかい声音がかき消す。
柔らかいのに。
千代吉はその声にビクッとした。
あたしなんかと格が違う。
一瞬で千代吉は悟った。
あたしも吉原一と謳(うた)われた花魁千代吉だ。
大奥一の女人と対等にやり合ってうまくやれる自信があったはずが。
嫌な汗が背中を伝い落ちていた。
この女は。
恐ろし。
千代吉と美坂野が平伏しているのを視線すら寄越さず、依里小路は大名に招かれて屋敷の中へと向かう。
依里小路が千代吉たちの方へと振り向くのが頭を下げている状態で横目の視界から見えた。
「あの者たちが書状にあった者たちでございましょう?お呼びなさいませ」
「は、ははっ!!」
大名が千代吉と美坂野を呼ぶ。
呼ばれて立ち上がり、その後を歩いた。
座敷に入り、千代吉と美坂野は末席に連なり、また頭を下げていた。
上座に依里小路が座り、大名が下座に座る。
「して、大名殿?あの書状はどのような御用件なのです?そしてそこなる二人、表をあげられよ」
千代吉と美坂野は表を上げて依里小路の顔を真正面から見た。
千代吉が横目で隣の美坂野を見るとこわばった顔をしている。
目の前の女人の優しい笑みを浮かべながらもその体からほとばしる威圧感にさすがの美坂野も緊張しているようだ。
「それは・・・・・」
大名がしどろもどろになっているのを千代吉が引き継ぐ。
「怖れながら依里小路様、私は吉原で花魁をしておりました千代吉と申します、隣の者は舞台役者美坂野。二人より依里小路様に詮議(せんぎ)して頂きたいことあり、この場を設けて頂きました」
「詮議と?私は大奥の女でしかありませぬ。町奉行にでも申せばよいのではないですか?」
微動だに表情を動かさず二人を見ている依里小路に千代吉は戸惑う。
これは。
あたしはしくじったかもしれない。
この女は。
「美坂野とやら。あなたはよい舞台役者ですわね。ええ、とてもよい演技をされる。ですが」
そこで千代吉と美坂野を依里小路は笑顔で見据えた。
「一個人の感情なぞ、上様と大奥の御意志の下ではせんかたなし(どうしようもない)。私は大奥の人間。大奥御年寄依里小路です。美坂野と千代吉とやら。大名の家紋付で私宛ての書状の為に参りましたが。。。。。それに連名で町人風情が私を呼び付けるその沙汰、覚悟はしていらっしゃるのでしょうね?大名殿、町人のおふざけに付き合うのもいかがなものでしょう?」
千代吉と美坂野はビクッとする。
大名もダラダラと汗をかいていた。
声は優しいが。
蛇に睨まれたように三人は硬直した。
この女は自分の感情よりも秩序や大奥、大樹公(将軍)のことが最優先で生きている。
依里小路がここに来たのは。
美坂野への感情よりも。
大奥御年寄として大名を諌めに来ただけだったのか。
依里小路は「はぁー」と溜息をついた。
「美坂野と千代吉とやら。その綺麗な顔が江戸の町にさらされるのは残念なことですが。後ほど二人には沙汰が下るでしょう。大名をそそのかし、私を呼び付けるなど。静かにそれを待ちなさい」
依里小路は二人共さらし首と暗に言っていた。
そこには憐憫の情も色恋の情も微塵もなかった。
「お待ちください!!依里小路様!!」
「なんでしょうか?」
千代吉は声を張り上げ陳情をした。
「これなる美坂野は江戸の町民も奥の女性の皆様も舞台で楽しませて参りました。その舞台の拍子木を打つ鶴松という者は江戸の町を怪異から救いました!!」
「それがどうしましたか?」
「その二人が今江戸の町から消されようとしております!!大樹公様の治世、このようなことがまかり通るのはいかがなものでしょうか!!」
「黙りなさい。上様の民の生活を大事にする気持ち、上様の御威光を愚弄しているのですか?」
依里小路は笑みを消し千代吉を見据えた。
「鶴松は江戸の町を混乱に貶(おとし)めた怪異を収めました。大樹公様や役人ではなく鶴松が、でございます!!その鶴松が今江戸の町から殺されようとしておりまする!!その傍らで美坂野も一緒に煉獄(れんごく)に落ちようとしておりまする!!これが大樹公様の思し召す治世なのでございますか!?奥仕えの皆様方にひと時の楽しさを提供して来た美坂野は舞台を降り、鶴松はいずこかへ消え、今は病(やまい)に伏せ生死を彷徨っております!!なにとぞ、なにとぞ!!」
千代吉は泣きながら依里小路に直訴する。
最後は絶叫していた。
「依里小路様」
美坂野が静かな声で言う。
「俺たちはさらし首でもなんでもいい。でも鶴松は大樹公様の治める江戸の町を救った。だからと言うわけではございません。ですが少しでも鶴松の身を憐れむお気持ちがおありなら鶴松を御救い下さい」
泣き伏せる千代吉と頭を下げて畳みにこすりつける美坂野を依里小路は見る。
「表を上げなされませ」
千代吉と美坂野が表を上げたところで依里小路は着物の襟の部分に手を入れ札を出した。
鶴松の札であった。
「大奥でも鶴松という者が江戸の怪異を収めたという話は浸透しております。この札は奥女中の中でも持つ者が多い」
依里小路は笑う。
「奥女中にも人気のようです。鶴松は今は?」
風向きが変わった。
「鶴松は今は化け物のように町民たちに思われ失意の内に姿を消し、町奉行の鶴賀殿、染芳殿たちが探索後、倒れていたのを保護しておりまする。ですがいまだ目を覚まさず」
千代吉がその変化した風向きを変えまいと必死に訴える。
「さようですか。上様は心の広き御方。この札のことは上様も御存知。町民なのに江戸の怪異を収めるとは殊勝なことよ、と仰っていた。その鶴松がそのようなことになっているのは上様の御意向に反する」
「では!!」
「奥女中たちもこの札を肌身離さす持っているというのに。その札の生き神と言われた鶴松がそのような不遇と知っては気も落ちましょう。そなたたちの沙汰は後に回しましょう」
「それでは!!」
千代吉と美坂野の心の中に一筋の希望が灯る。
「鶴松は上様の治める江戸の怪異を収めた者。その忠義には忠義を尽くすまで。それが人の道理。大名殿」
「ははっ!!」
「鶴松の所へ大奥の御匙(おさじ:医者のこと)も向かわせましょう。どちらの医者が行っているかは知りませぬが腕のよい御匙を向かわせます。町民たちがそのような不義をしているのならば正さねばなりますまい。ここは上様の敷く治世。そのような不義理は認めませぬ」
千代吉と美坂野は再び、平身低頭した。
「勘違いするでない。これは上様の御意向。私ではなく上様に感謝せよ。そして千代吉とやら」
「はい」
「お主・・・・・・私を手玉に取れるとでも思うたのであろう?結局はお主の思うように動くが忘れるでない。大奥は」
そこで依里小路は薄笑いをしながら言い放った。
「大奥は百鬼夜行も寄り付けぬ女という魔物が跋扈する魔界。その住人の我らをたぶらかせるとでも?」
依里小路は優しく問いかけながらもねめつけるように笑った。
依里小路は最初から千代吉の策に気付いていたのかもしれない。
もまれて来た世界が、生きて来た世界が違う。
強靭な心と精神力。
それが依里小路を大奥筆頭に昇りつめさせたのだろう。
将軍の長きに渡る治世の為、つまりはそれに従う大奥を守る為なら惚れた男も簡単にさらし首と言いのける。
その強さ。
美坂野と千代吉の命を賭けると言った覚悟よりも上の覚悟を最初から依里小路は持っていたのである。
それを見せつけられた大名と千代吉と美坂野は頭(こうべ)を垂れた。
感服したのである。
「お琴、梅、こちらへ」
「はっ」
襖の外で待機していた依里小路のお付きの女中が呼ばれる。
「御目見え以上の奥の方々の時間の作れる日を尋ねて参れ。上様と御台所(みだいどころ:正室)様に奥の者たちの行事として参拝と観劇の許可を私から近い内に取り付ける。お前たちはそれぞれの奥の方々に知らしめよ。必ず空けるようにと。そして参拝の際の皆様の新調する着物の手配、人員の手配をせよ、急ぎじゃ。行け」
「はっ」
指示を出して依里小路は立ち上がる。
「私もやることがござります故。これで失礼致しまする」
依里小路は歩んで、頭を下げている美坂野のところで立ちどまり腰を落とす。
「本当に粋な男ぶり。鶴松の為にさらし首になってもよいというその心意気。私は高く買いましょう。美坂野、私がつけ入る隙は元からなかったのですね」
依里小路はそう言って笑うと美坂野がハッとして頭を上げて何か言う前に歩み去って行った。
大名が慌てて後を追う。
千代吉は体がガタガタ震えだした。
あたしはバカだ。
あんな女に勝てるわけがない。
運がよかった。
急に恐ろしさが襲って来たのだった。
無駄死にを美坂野とするところだった。
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