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駆ける
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鶴松が目を覚ました時。
周囲には知らない声がたくさん響いていた。
眼鏡をかけていないので全員の顔がぼんやりとしか見えない。
「鶴松!!」
一人だけ知っている。
「野乃ちゃん・・・・・」
鶴松に覆いかぶさる者がいた。
懐かしい。
お白粉屋さん辞めたはずなのに。
お白粉のいい匂いが。
野乃助が鶴松に優しく抱きついて泣いていた。
「目を覚ましたか。依里小路様にすぐ連絡を」
近くにいた知らない男が言った。
鶴松の周囲にはたくさん人がいた。
だが野乃助以外聞き慣れた声ではなかった。
目がさらに見えなくなっている気がした。
鶴松は何があっても傷つかない為の予防線をその時張った。
この状況が分からないが。
愛している美坂野も野乃助以外のみんなもいないということは。
もしかしたら。
僕は。
捨てられたのかもしれない。
消えてなくなればよかったのに。
今までの想い出を反芻して自分の周囲の状況を見ないようにした。
思い出すと苦しくなった。
涙が流れる。
楽しい記憶なのに涙が出る。
何故楽しい記憶なのに過去になるとこんなに悲しくなるんだろう。
体が弱っていたからかもしれない。
鶴松は不安定になっていた。
「鶴松?」
野乃助は鶴松が誰も見ずに虚ろな目をして涙の筋が頬を伝うのを見て、背後にいる御匙を振り返った。
御匙も鶴松の様子のおかしさに気付いて前に出る。
「どうしたというのだ?」
鶴松は反応しなかった。
返事をするように涙がどんどん頬を伝っていた。
鶴松は目を覚ますと同時に感じられなかった足の痛みやドクンドクンと鳴る自分の鼓動にこれが現実だというのを自覚していた。
これが現実だ。
顔の分からないたくさんの見知らぬ人間たちに見降ろされ、囲まれ。
一人だけ聞こえる懐かしい声。
眼(まなこ)をどこに動かしても耳をそば立ててもどこにも聞きたい声がない。
美坂野兄ちゃんはどこにもいないんだろう。
目覚めなければよかった。
目覚めなければずっと夢の中で生きていられたのに。
鶴松には生きようとする気力がもうなくなっていた。
「これはどうしたことかっ!?」
脈を取っていた御匙が驚いて声を上げる。
周囲が突然騒がしくなった。
野乃助が鶴松の名前を何度も呼んでいた。
鶴松は全てを遮断したくて記憶の中に逃げ込んだ。
鶴松がまた目を閉じて気を失ったのを見て野乃助や御匙たちは動転した。
「脈も息も弱くなっておる、どうしたことか!?」
「鶴松!!鶴松!!」
「先ほどまで大事なかったのに。。。!!」
野乃助も依里小路が寄越した御匙たちも驚き慌てた。
「死なすわけにはいかぬ!!依里小路様から必ず生かせと言われておるのだ!!」
御匙たちはあらゆる手を尽くす。
鶴松たちが滞在する家の爺と婆はその様子を茫然と見ていたが鶴松のそばに寄って座った。
ここ数日の中で野乃助と尋ねて来ていた染芳、鶴賀、小志乃から事情を聞いていた二人は。
鶴松に憐憫の情を抱いていた。
「辛かろうて。生きるのが辛いんじゃろう?」
「かわいそうに。でも生きなければいけませぬ。待っている者がおりまする故。どうか生きなされ」
爺と婆は手を握って愛おしそうにさすりながら鶴松に何度も語りかける。
鶴松が目を覚ましたという一報を受けた依里小路は大奥の中で安堵していたがすぐさままた鶴松危(あや)うし、の一報が来たのを聞いて
「どういうことか!!」
と遣いの者を叱責した。
「つ・鶴松は目を覚ました後、またすぐ・・・・・・」
「何をしておるのじゃ!!」
依里小路は苛立つ。
鶴松が死んでしまっては今までのことが水の泡。
それに。
美坂野が悲しむ。
それだけは嫌じゃ。
夜の為江戸城から出られる時間ではない。
江戸城から外に出ることが出来る依里小路でも門限がある。
苛立ちながら依里小路は寝ずに朝になるのを待った。
私自ら。
美坂野の愛する鶴松に会いに行こう。
死なすわけにはいきませぬ。
死にそうなら無理にでも息を吹き返してみせましょう。
朝になり、依里小路は部下の表使い(御年寄の次に大奥のことなどを取り仕切る仕事の奥女中)、御祐筆(ごゆうひつ:書簡関係の職務や献上された物の管理などを任されたり)を呼び付けその日の仕事を申しつけ江戸城をお伴の者を数名連れて抜け出した。
「美坂野たちは今は?」
「江戸の町で長唄を教えている小志乃というおなごの家に詰めております」
「そうか。その者たちも連れて参れ。馬で駆けれるおなごは大奥の女におりましたか?」
「いえ、確か馬の扱いに慣れている者は・・・・・・」
「ええい、籠などで向こうておっては日が暮れてしまうわ!!」
当時は馬車などはなく、馬に乗れなければ人力の籠が交通手段の時代である。
寛政の改革(1787年~1793年)のとき大阪の中井竹山という儒者が、馬車の採用を提案しているが却下されている。
輸送力がアップし単位当たりの運送コストも安くなる、参勤交代でも使用すれば諸大名の財政も楽になるという申し出であったが老中松平定信はこの意見を採用しなかった。
軍事利用への懸念もあったが馬車の採用は、社会変化をもたらすというのが大きな理由のようである。
馬車を採用すると少人数で大量の輸送が可能になるが駕籠ひきや馬方(馬子)、人足は失業者が出る。
船の輸送分が食われるので船乗りも失業者が出る。
また、道路や橋の傷みが激しくなる。
舗装や橋の耐用年数を見直さなければならなくなる。
また馬車を採用すれば今でいう交通事故は劇的に増えたであろう。
つまり、馬車の採用は社会構造が劇的に変化するわけで幕府はこれを恐れたのではないかと思う。
現代の合理主義的思考で論じるなら、経済成長を伴わせば失業の問題も解決すると思うが、この思考は合理性を追求し続ける限り様々な問題を引き起こしつつ果てしなく引き起こる問題や利益への膨張へと向かう。
江戸時代の日本は国内の循環で需給一致していたであろうし(だから鎖国なんか出来ていたと思います)、現代のような思考は不必要だったと思われる。
また、西洋は「奪い合いの精神(植民地による資源などの確保)」であり、農耕民族の日本人は「分かち合う精神」であろうから、こうした精神文化の面でも大量の失業を発生させる馬車は採用しにくかったのではないかと思う。
江戸日本は労働組合のいらない全国民の幸福型追求社会ではなかったかと思う。
依里小路の呼びだしにより、鶴賀、美坂野、染芳、小志乃、千代吉が馳せ参じた。
「馬を操れる者は?」
「はっ!!私鶴賀と染芳、そして小志乃でございます!!」
緊張の面持ちで鶴賀が答える。
「小志乃?お主馬を操れるのか?」
「はい、実家が○○家の娘でございます。馬もたしなんでおりました」
「なんと・・・・○○家の武家の方でしたか」
確かあの家は武術と馬術に優れた戦国時代から続く名家。
今は太平の世の為、落ち目ではあるがまさかその娘が何故町民に紛れて生活している?
依里小路は疑問に思ったが小志乃が馬を操れるのは助かったのである。
依里小路は大奥の女で軽々しく男性の操る馬に同乗など出来ないのである。
そんなことをすれば依里小路でも密通の疑いをかけられ流刑である。
お伴の者とはそこで別れ、鶴賀と染芳に護衛を頼み全員で馬に乗る。
小志乃の後ろに依里小路、染芳の後ろに美坂野、鶴賀の後ろに千代吉。
馬を駆けさせて急いで鶴松の元に向かう。
馬上の美坂野ははやる気持ちで鶴松を思い、右斜め後ろを走る小志乃の後ろでそんな美坂野を一つ心思うことありのまなざしで見つめる依里小路だった。
「しかし、美坂野がそこまで惚れるのだから鶴松という人物はどのような者なのだろう?」
と依里小路の心の中には好奇心みたいなものがあった。
毎日大奥の鉄の掟(おきて)を守り、遵守させ。
煩わしい愛憎劇と嫉妬や妬(ねた)み、そねみ、ひがみなどの渦の中で立ちまわっていた依里小路には馬上で受ける向かい風が気持ちよく感じられた。
外の空気はかように気持ちのいいものなのだな。
と荒(すさ)んでいた依里小路の険しい顔も少し穏やかになる。
今は。
愛する者の為に何かしてやろう、まずは鶴松を生かさねば。
一生一緒になれない立場同士。
今の将軍が亡くなれば私も大奥を去ることになるかもしれないがそのようなことを願ってはいない。
長い将軍の治世を。
だが。
それでも恋焦がれるこの気持ちは本物だろう。
成就はしないがその気持ちをこの風に預けて前に進む為、将軍の為大奥の為。
この気持ちに区切りをつけなくては。
駆ける馬の上で依里小路はそう考えていた。
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