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心の病
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「依里小路様!!」
「鶴松は?」
「ははっ、一度息を吹き返したのですがまた・・・・」
依里小路たちが鶴松の眠る周囲を固める。
「鶴松。どこに行こうとしたんだ!!」
美坂野が鶴松の顔のそばに自分の顔を近づけて頬ずりをした。
美坂野の頬を伝う涙が鶴松の顔に伝う。
「御匙殿、鶴松はどのような状態なのです?」
「容態は安定していたのですが急にまた意識を失ってしまい・・・・」
「そうですか。美坂野、千代吉たちよ。鶴松の名前を呼び続けなさい」
人は。
気力でなんとか持ち直すこともある。
大奥で側室たちがお産のたびに見せて来た生命力。
母子共に死産も多い時代。
生きようとするその心と守るべき者がいれば。
人はそう簡単に死ねぬ。
依里小路の今まで見て感じて来た経験からの持論だった。
「鶴松を呼び戻しなさい」
美坂野たちは依里小路の言うことの意味は分からなかったが鶴松の回りで鶴松を呼び続けた。
「御匙殿、鶴松は病気なのですか?」
鶴松の周囲で皆が名前を呼び、体をさする間、依里小路は御匙の者たちに尋ねる。
「分かりませぬ。ただ、気が弱ってまする。息も脈も弱々しく」
「そうですか。今まで見て来た症例ではないのですね?」
「ええ。疱瘡(ほうそう:現代で言う天然痘のこと)、骨瘡(ほねがさ:梅毒などの性感染症)、早打片(はやうちかた:肩の痛みを指すが、心臓病も含む)なども見受けられず。初めて見る悪疾(あくしつ:悪疾は治りにくい病気のこと)にございます」
「そうですか。誰でもかかり得る悪疾でしょう」
「なんと?」
鶴松の事情は美坂野たちからの話や独自に町に遣わした密偵で依里小路は把握していた。
鶴松。
そのように目を覚まさぬのは。
病気ではなかろう?
人は孤独を感じると命を落とそうとする。
自分も経験して来た道。
女中同士のイジメや奥の生活の辛さに何度死のうと思うたか。
目覚めないで次の朝には死んでいたらよいと何度も思うた。
独りは辛い。
人は寄り添いたがるくせに争う。
だが独りは辛いこと。
依里小路は一人大奥に残ったが。
まだ御目見えでもない下っ端の女中の頃を思い出していた。
同期の女中たちは皆去って行ったけれど。
戻る家のない私は独り残ってここまで来た。
繰り返した出会いも別れも言葉にすると泡のように浮かんでは消えてしまうけれども。
それが生きる糧になることもある。
「鶴松!!」
一際大きい美坂野の声に依里小路は美坂野たちの方を向く。
鶴松が目を覚ましていた。
目が良く見えない鶴松に千代吉が眼鏡をかけてあげていた。
目を覚ました鶴松に覆いかぶさるように皆が涙を流し、嬉しそうな顔をしている。
「鶴松よ、目を覚ましましたか?」
依里小路が歩み寄り鶴松に近づく。
依里小路の座る場所を作る為、全員が体をよけて畏まった。
皆の様子と知らない女性に鶴松はまだ夢うつつで不思議そうな顔をしていた。
「私は大奥御年寄依里小路と申す。鶴松、今美坂野と千代吉の命は私が預かっておる。死なせたくなければ鶴松、生きねばならぬ」
突然の話に鶴松は驚いた表情をする。
そして依里小路の突然の物言いに周囲の人間も驚いた。
まるで世間話をするように依里小路は鶴松を見つめながら柔和な顔で続けて言う。
「鶴松、将軍からの言葉を預かっておる。そのような格好ではなく姿勢を正しなさい」
「依里小路様!?鶴松はまだ・・・・」
声をかけた御匙を依里小路は一瞥した。
御匙は口を慎んでまた控えた。
依里小路の鋭い視線の前に御匙は何も言えなかった。
鶴松は周囲の者たちの手を借りて起き上がり、布団の上に正座した。
真っすぐな姿勢を保ち、視線を目の前に座る依里小路に向ける。
「此度(こたび)の江戸の町の怪異を収めたこと、大義であった」
「はい」
依里小路は将軍から何度も言付けを頼まれて将軍の代わりに大名たちに将軍の言葉を伝えて来たことはあったが町人に伝えるのは初めてだった。
鶴松が布団の上で手をついて頭を垂れていた。
「表を上げられよ。鶴松、奥でも鶴松の札は人気がある。大奥御年寄として命ずる。此度、大奥で増上寺への参拝が行われる。その後は大奥の皆さまと観劇としておる。鶴松、その時までに体を万全にし、美坂野と共に我らを迎えよ。お主の拍子木をもって我らを迎えるのじゃ」
「ですが・・・・・・」
鶴松は即答しなかった。
町民が鶴松を見る時の顔が思い浮かんで鶴松は暗い顔をした。
不気味がるから。
「ですが、なんじゃ?これは私個人だけではなく上様からの命と思うのじゃ。これは大切な大奥、江戸城の行事。江戸の町で何が起きているのかは知らぬ。じゃがな」
依里小路は強い語気で言い放った。
「江戸の町も全て上様の御威光によって守られておる。鶴松、お前に拒否をする権利はない。お前が受けないと申すなら美坂野千代吉共々お前も上様の命に背いたとして死罪じゃ。美坂野千代吉を助けたくば私に従いなさい。元よりお前に選択はない」
鶴松はじっと依里小路を見て話を聞いていた。
「美坂野兄ちゃん、何かしたんですか?」
「お前を救いたいとそこなる千代吉と共に私に直訴して来ました。身分違いの者からの直訴がどういうことになるか知っていますね?」
「はい」
「あなたはそれに答えず一人で勝手に死ぬのなら何も言いません。二人が命を賭けた直訴、鶴松の為でありましょう。あなたは二人の窮地を助けたくはありませんか?」
「助けたいです」
「ならば生きなさい」
「はい」
鶴松の言葉を聞いて依里小路は微笑んだ。
依里小路はその後、また江戸に小志乃や鶴賀、染芳、などの者を引き連れて帰って行った。
後から馬を寄越して美坂野以外の者も送るということだった。
野乃助を含め全員が江戸の町に戻り、二名の御匙と美坂野だけが残った。
「どうして直訴なんかしたの?」
「鶴松を守る為」
「どうして?僕のことはもういいのに」
「よくないだろう!!俺たち契っただろう!!」
美坂野は鶴松の薄い肩を抱き締めて泣いていた。
「勝手にどこかに行くな!!死ぬのも許さねえ!!死にたいなら俺も一緒に心中立てしてやる!!だから離れるな!!」
「ごめんね」
鶴松は美坂野が泣くのをなだめるように頭を撫でた。
何が起こっているのか鶴松はよく分からなかったが。
御匙も爺と婆も目がしらを袖で押さえているのを見てこう思っていた。
世界は僕の知らないことでいっぱいだ。
でも。
この体に感じる美坂野の体温も気持ちも温かい。
これだけ知っていれば生きていける気がした。
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