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天の川
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美坂野と鶴松が江戸の中心から離れた田舎に身を寄せて数日後。
その日はやって来た。
爺と婆の住む家にいた鶴松と美坂野に依里小路からの遣いの者がやって来て
「明日朝一番には、江戸の町におられよ。二人は美坂野の家にて待機をせよ」
と申しつけられた。
遣いの者から明日大奥行事の増上寺参拝が行われるという旨を聞き、その後観劇があるとのお達しだった。
遣いの者は美坂野の家で二人は待機するように命じた。
世話になっていた爺と婆に礼を言い身支度をして江戸の町に二人は戻る。
鶴松も病後ではあったが顔色が少し悪いだけで問題はなさそうだった。
舞台を降りると啖呵を切った美坂野は鶴松と一緒にいた期間、一人黙々と劇のセリフ回しや見得を切る練習を何度も繰り返していた。
どの演目をするかも分からないしどのような仕掛けで美坂野が舞台に再度立つのかは分からないが依里小路が舞台に美坂野と鶴松は立つのだと言うのだからそれに向けてひた向きに練習を繰り返した。
江戸の町に再び現れた鶴松と美坂野は江戸の町民たちの好奇の視線にさらされる。
舞台を降りた人気役者に化け物憑きと言われた二人の取り合わせは町民の好奇心を掻き立てるのに充分だった。
「大丈夫だ、鶴松。堂々としていろ」
手をつないで通りを二人で歩く。
障害があればある程二人を結ぶ糸は強く固くなって行く。
家にたどり着いた時、家の中には千代吉と小志乃が待っていた。
「飯食べてないだろう?用意してるから食べな」
膳が二つ準備されていた。
「おぅ、陰膳か?」
「ふん」
陰膳(かげぜん)とは、旅行や出征その他に出た不在者のためにその者が旅行中に飢えたり、危害を加えられ安全を脅かされたりしないように祈り願って、留守番がその者のために留守宅で供える膳である。安全祈願の呪術の一つというようにネット上では記載があるようだが、今では違う意味でよく使われている。
法事の後の食事(お斎と言う)の時、故人の位牌と遺影の前に、参加者と同じ食事を供える。これを今は陰膳と言っている。
(余談ではあるがホラー小説として夏樹静子の「陰膳」などホラーの題材にもなりやすい。もう一つのメランコリックで長野が書いているmisiaのMVの膳も陰膳の意味合いもあると思われる)
千代吉と小志乃の準備した飯を二人は食べる。
千代吉も依里小路から謹慎を言い渡されているような状況であるので美坂野の家で依里小路の指示を待っている状態であった。
「僕たちどこに流れて行くんだろうね」
「どうだろうねぇ。同じところに流れ着くことはないかもねえ。あたしと美坂野は地獄だろうけどさ」
「じゃあ僕も地獄でいいや」
鶴松が微(かすか)かに笑う。
小志乃が美坂野の家にある三味線を手に取り、1曲唄った。
彷徨う想いは 雲の上舞う鳥になりて 辿りつけるなら 天の川
うねる風に 体揺らし 見上げる 天の川に祈りながら 溺れぬように
はねる体 傷を隠し彷徨う 辿りつけるならあなたのいる天の川
辿りついたのは 銀灰の天の川 辿りついたのは あなたのいる天の川
小志乃は鶴松と美坂野の現状を織姫と彦星になぞらえて歌にしたのである。
地獄ではなく辿りつくのは天の川、と唄で否定したのである。
今二人を取り巻く現状に溺れずに辿りつけるのは二人だけの世界、天の川です、と。
江戸時代から七夕行事は一般的になった。
今のように笹の葉に願い事を書く風習はあったが、江戸の町では初めは、子供たちに読み書きを教えていた寺子屋で習字や手芸の上達を祈る行事として行われたという説がある。
織姫にちなんで裁縫の上達を願ったり、詩歌や和歌、習いごとの上達を願うという今のようななんでも願いを書くものではなく願い事は決まった物であったようである。
「相変わらず小志乃師匠は粋だねえ」
と千代吉も小志乃の美声と即興で唄で答えた楽才に驚く。
「百鬼夜行の時だってうまくいったのです。今回だってうまくいきます」
小志乃は自信を持って言う。
「そうだな。俺は役の練習をする。鶴松も明日拍子木叩くんだから拍子木磨いとけよ」
「うん」
心の内では二人は不安だった。
家への帰り路の道中の町民の目。
それを思い出すと心が弱くなりそうになる。
それを払うように美坂野は役の練習をし、鶴松は拍子木を磨いたりしていた。
千代吉と小志乃が家に帰った後、二人きりになる。
「鶴松、早めに寝よう。明日は早いからな。いつ呼び出しがかかるか分からない」
「うん」
二人夜具に身を包んで眠れそうにない夜を迎えていた。
鶴松は美坂野の手を取って手をつないで眠った。
鶴松の小さき手よりも大きい手。
手の平に孤独を包んでくれる美坂野の体温。
不安定な鶴松の心を穏やかにしてくれる。
結局。
僕は助けられてばかり。
この江戸の町にはどこにも二人のいられる場所がないのかもしれない。
鶴松は目を閉じたまま思う。
ねぇ神様。
お願いします。
この僕の手の平に少しの強さを下さい。
美坂野兄ちゃんを助けられる強さを下さい。
目を閉じて静かに涙を流す鶴松。
それを何も言わず暗闇の中で目を開けてじっと見つめていた美坂野がいた。
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