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伏魔殿
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その日が来た。
江戸の町は浮き足立っていた。
将軍の側室たち、奥女中の行列が増上寺に参拝し、観劇するというお触れの立て看板から江戸の町人たちは朝からソワソワしていた。
町人たちが滅多に見ることのない大規模な女行列。
しかも将軍の側室であるから美人揃いである。
個人や小規模の将軍の代参の参拝行列は見たことはあるが今回は違う。
その噂と熱狂が江戸の町を覆っていた。
男たちは朝から身支度をし綺麗に髷を結い肌の手入れをする。
女たちも朝から綺麗に身支度をしていた。
だが町民たちは知らない。
その艶(つや)やかな美貌の主たちが住んでいるのは大奥という伏魔殿(ふくまでん:見かけとは裏腹に、悪事などが絶えずうごめいている所)。
町民たちが大奥の女人に持つ淡い願望や羨望などすぐに打ち壊される事態になるのである。
「依里小路殿。この参拝が終われば観劇に出るのですね?」
「はい」
「それは楽しみ。いつぶり位かしら。舞台を見るのは」
「あら、町民の出でしたから以前ご覧になられていたのでしたわね。私はまだ観劇をしたことがございませんので。どのような物かとても気になりますわ。見る時のお作法など教えて下さりませ」
「公家の出身の方にはつまらないものかと思いますわ。こちらにいてもつまらないでしょうからお帰りになられてはいかがですか?」
側室同士で言語外に町民の出である者と武家公家出身の者で早くも暗雲が立ち込めていた。
依里小路はそんな側室たちの様子を見ながら言う。
「大奥の中でも話題の鶴松という町民が拍子木を叩いて劇が始まるそうでございます。それに町で有名な美坂野という役者がいる劇小屋に参りますので楽しんで頂けるかと」
「さようですか。江戸の怪異を収めたという鶴松の拍子木とは。興味深いものです。美坂野の舞台は私も去年の寛永寺参拝の折り、見ましたけれどそれはもういい舞台でした。泣けて泣けてしょうがありませんでした」
お付きの女中も側室たちも色めき立つ。
大奥の中は娯楽という娯楽がないのでこの日を楽しみにしていたというのがあった。
それに色男の美坂野という役者に大奥でも話題になった鶴松を生で見られると側室もお付きの御目見え以上の女中たちも着物を新調して心馳せて出て来ているのである。
増上寺の参拝後、小屋への道を女たちは江戸の役人や厳重な警備に守られて進む。
「下に~、下に~」
女行列が進む中、町人たちは道の端に除けその場にひれ伏して頭を垂れている。
だが活きのいい江戸の町民である。
一目美人を見ようと頭を少しあげて上目遣いで見ようとする者もいるし、女行列の綺麗な着物に目を奪われる者もいる。
威勢のいい怖い物知らずは声を発する者もいる。
町民は勘違いしていたのである。
奥の女たちだから。
女だから。
そのような振る舞いも美人故、日常茶飯事、その行動も許されるだろうと。
「なんじゃ?今の下卑た声は?」
依里小路が歩みを止めさせる。
道の端にひれ伏す町民たちを上から見下ろす。
「今、奥の皆様に下卑た声をかけ愚弄した者は誰じゃ?」
女行列の熱気で浮かれていた町に一瞬にして冷たい風が吹いた。
シン、と静まり返った。
「お琴、梅。其の者を捕えよ」
「はっ」
依里小路が指で示した男に依里小路の下で働く二人が飛びかかった。
依里小路はどの町民の男が声をかけたか最初から分かっていた。
大奥御年寄として側室たちに、また奥の女中に何かあってはいかぬ、と護衛の役人たちよりも気を張って周囲を見ていたのである。
依里小路付きの女中であるお琴と梅は武芸の手習いもあり、すぐに声を発した男を捕え腕を背中に捻じ曲げていた。
「お前、奥の皆様になんと申した?」
依里小路の前にひざまずかされ腕を捻じ曲げられた男が脂汗をかきながら苦悶の表情で依里小路を見上げていた。
「傾城(けいせい)のび・美人と・・・・」
「奥の皆様の顔を見るなど町人の分際で失礼千万。さらには上様を支える皆様に傾城(けいせい)じゃと?」
「そ・そのようなつもりでは。私はただ奥の皆様の・・・・・・」
「黙れ、許しも得ていないのにしゃべるでない!!」
腕を捻じ曲げていたお琴と梅が男を怒鳴り腕をさらに締め上げる。
男の悲鳴が町にとどろく。
「お琴、梅」
冷たい依里小路の声色と姿勢に町民は震え上がった。
それに対し。
奥の女たちは全く動じず、逆に扇で口元を隠して笑っている者すらいた。
「そのまま腕をへし折れ」
「はっ」
依里小路はそう言い捨てるとまた前を向いて歩みを進ませた。
背後で悲鳴が聞こえていたようだが依里小路は眉一つ動かさず平然と歩き出した。
頭を知らずに上げて一部始終を見ていた町民がまた急いで頭を垂れる。
ガタガタ震えている者だらけだった。
役人が慌てて口をパクパクしながらその一部始終を見ていたが
「警備の皆様、奥の女にも武芸に秀(ひい)で警護する力丈夫な女たちがいます。役人の皆様がそのような失態では奥の皆様も守られますまい。しっかりして下され。我らが手を出しますぞ?」
「も・申し訳ございませぬ!!」
規則は守られる物。
大奥の皆様に対して頭も下げず軽口を叩くなど。
依里小路は両端で頭を下げる町民たちに視線を流しつつ警戒しながら歩く。
江戸の町では士農工商が曖昧になりつつある情勢でも。
江戸城の中は違う。
我らはそれを作った御方の元に集いし者。
江戸の町民の意識とは違うのである。
賛辞の言葉もただの侮蔑(ぶべつ)でしかない。
「依里小路殿」
「はい」
側室の一人が輿(こし)の中から声をかけた。
「小屋はまだですか?お尻が痛うて構いませぬ」
「もう少しでございます。お待ち下さいませ」
今先ほどの冷たい顔から一変して依里小路はにこやかに返事をする。
先ほど男を捕えていたお琴と梅が戻って来て横に並んだ。
依里小路はすぐにまた厳しい顔に戻る。
「あなたたちは私よりも先に気付いて動くべきです。あの男に気付きもしなかったのですか?」
「も・申し訳ございませぬ」
「奥の皆様に害が無きよう周囲を見なされ。そんなことでは奥仕えとして失格です。大奥御年寄にあなた方はいずれなるやもしれぬのですから。振る舞いに気をつけなされませ」
「は・はい」
依里小路の下で御年寄見習いのように動く二人の奥女中は畏(かしこ)まる。
小屋が見えて来た。
のぼり旗が何本も立っていた。
「あら?美坂野ののぼり旗ではないようでございますが?」
のぼり旗を見ていた奥女中の一人が声をあげる。
「ほんとですわ。美坂野の名前がございませんわね。どうしたことでしょうか」
依里小路もわざとらしく今気付いたというように声を上げた。
知っていたが。
看板役者のはずの美坂野の名前ではなく知らない役者の名前ののぼり旗を見て奥女中たちが騒ぎ出す。
「依里小路殿、美坂野は出るのであろうな?」
「確認して参ります」
依里小路は役人に舞台小屋の旦那を呼びに行かせる。
「これはこれは奥の皆様よくいらっしゃいました」
「そのような挨拶はよい。本日は美坂野の舞台と鶴松の拍子木を見に参りました。のぼり旗に一つも美坂野の名前がありませんがどうしたことです?」
「美坂野でございますか・・・・・?いえ、やつは今は」
旦那が言うのをかき消すように依里小路は話を始めた。
「今日は美坂野の舞台と鶴松の拍子木を見聞する為に大奥から出て参ったのです。今日はしっかりともてなしをお願いします」
「え・・・・・・」
「なんです?そのように驚いた顔をして。美坂野は江戸の町きっての名役者の誉(ほま)れ高く、鶴松は江戸の怪異を収めた功労者ではありませんか。小屋でも看板の者たちなのでしょう?」
「そうですわ。以前もすこぶる盛況で客には町の者たちも多く。それは素晴らしい音の拍子木とお二人の佇(たたず)まいでしたわ。町を救った鶴松の拍子木のなんと有難い澄み渡る音であったことか。美坂野の舞台の素晴らしきことだったか」
依里小路の言葉をつないで女中たちが声をかける。
その会話を頭を垂れていた町民たちは静かに聞いていた。
大奥の女中たちは知らない。
もし鶴松たちを町民たちが化け物と怖がるようになっていると知ったら。
美坂野が舞台を降りたと知ったら。
美坂野と鶴松が出ないと知ったら。
この小屋の旦那もそのようにした町民たちにもどのような沙汰になるのか。
その場にひれ伏している自分たちの身を町民は呪った。
この場にいては。
もし何かを大奥の女たちに聞かれたら。
返事次第ではあの男のように。
町民たちは自分たちのして来たことが露見しないのを願いながら動けずにひれ伏していた。
小屋の旦那は次第に顔が青くなる。
「どうしたのです?もちろん美坂野と鶴松が出るのでしょう?江戸の町きっての有名人。上様も鶴松に直々に大義の言葉ありの江戸の町の恩人。忠義を尽くした者。小屋でも町でもそれはそれは大事にされているのでしょう?」
「は・はい!!」
「さようですか。二人の姿を見るのが楽しみです。ささ、奥の皆様。小屋の中へ。二階席をご用意しておりまする。参りましょう」
旦那が嘘をついたことに町民は何も言えなかった。
自分たちでもそう返事をするだろう。
怖ろしかったからだ。
依里小路の声で大奥の女たちが小屋に入って行くのを茫然と見ていた旦那はすぐに我に返り、小屋の人間を外に呼んで言った。
「すぐに美坂野と鶴松を呼んで来い!!呼んで来ねえと小屋は取り潰しで俺たちの首も飛ぶ!!いいか、なんでもいいからすぐ連れて来るんだ!!」
外の騒ぎを聞いていた小屋の人間は急いで美坂野の家へと駆け出した。
町民たちも不安そうにひれ伏した姿から立ち上がって事の成り行きを見守っていた。
言われればそうだ。
江戸の怪異を救ったのは鶴松だ。
依里小路の言葉と大奥の人間たちの言葉に自分たちが何をしようとしていたのかに気付く。
それと共に。
もし美坂野と鶴松が現われなかったら。
もし町民全体がその恩義に仇をなしていたと知ったら。
あの女たちがどのような沙汰を下すかと思うと町民たちは身震いした。
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