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送り拍子木
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鶴松の拍子木と共に幕が上がる。
桟敷(さじき)にいる客も2階席の大奥の女たちも幕開けのその場に佇む美坂野のいい男ぶりに女たちの口からも男たちの口からもはぁ、と吐息が漏れていた。
当時の歌舞伎役者というのは現代で言うところのトップアイドル、もしくはハリウッドスター並の人気と言えば分かりやすいだろうか。
浮世絵にも描かれ、女性はそれを買い漁りその着た衣装は流行として取り入れられる。
今で言えばブロマイドみたいなものだろうか。ファン心理と同じなのである。
幕開けと同時に楽師たちが三味線を鳴らし鼓を打つと美坂野は優雅に舞った。
歌舞伎とは名前の通り「歌=音楽」「舞=舞踊」「伎=演技演出」のことである。
歌は大きく分けて「唄い物」と「語り物」に分けられるが前者が長唄後者が義太夫節というものである。
歌舞伎舞踊は演目ごとに多くのレパートリーがあるがどの舞もその動作の美しい身のこなしが基本となる。
伎は感情表現の一つ一つを大げさに誇張して表現するのが基本だが演出・演技共に美を追求するものとされる。
美坂野が芝居に選んだのは美坂野の為に書いてもらった芝居だった。
美坂野は小さい頃から陰間をしながらも舞台には立っていた。
中村座で初演された伊達(だて)比べの千松を演じ、その美貌と柔和な顔立ちで歌舞伎界から極印(ごくいん:動かし難い証拠や証明、刻印。ここでは証明されたという意味です)を付けられ、「恋女房そめわけたづな」では三吉をつとめた、その時にはその演技の愛らしさといじらしさに見物客は皆泣かされた。
役者として食えるようになってからは陰間を卒業したが、劇作家の河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が市川小団次の為に書き下ろした「都鳥ながれの白波」などのように自分の代表作を欲しがっていた。
歌舞伎役者の演技と美貌に惚れ込んでその役者の為に作品を作る、舞台を作るというのはよくあったようで劇作家と美貌の役者たちの間にどのような関係があったのか想像するのは無粋であるとは思うが、歌舞伎役者が陰間を兼業していたことから察して頂きたい。
だが、美坂野はそれを使わなかった。色香は使わず雨の日も嵐の日も毎日作家の家に通い詰めて演劇論を熱心に語り明かして作家が人間美坂野に惚れ込んで書いたものだった。
「師匠、芝居ってのはさ。昔のことも目の前にあることのようにして見せる物だからさ。全体の話の筋が分かってないといけねぇ。その筋が腹ん中にないと情が移らなくていけねえのさ」
「ふむ」
「俺の持ち役だけ分かればいいってもんじゃねえ。俺のセリフだけ分かっていればいいってもんじゃねえよ。芝居ってのは俺だけでやってるんじゃねえ。演じてる他の人間もいる。同じ人間だもの、その時相手がどんな気持ちとかさ、どういう雰囲気なのか、とかさ。そういうのも含めて芝居ってもんだろ?」
「その通りだ」
「今の芝居は俺は好きじゃねえ。自分のセリフだけ覚えて出番終わりゃ、引っこんで。呼ばれたらまた出てってさ。それは芝居じゃあねえ。ただの木偶(でく)だ。気持ちが入ってねえ。人間だから相手がいて相手がどんな気持ちでそんな言葉を言うのかとか普通なら考えるだろ?気持ちが入るもんだろ?」
「美坂野お前の熱い気持ちは分かった。分かった。何が望みだ?」
それで書かせたのが。
美坂野の一生を劇にしたものだった。
子供の頃に家族に売られてひもじい思いしながらいろんな人間と出会い、そして恋をして。
次第に役者として人気役者に昇りつめて行く。
それを書かせた。
自分のことだから。
気持ちが、情が入った。
初演の時は芝居が終わった後も観客が立ち上がらずにただ涙を流す、それ程心を打つ演技だと評判の演目だ。
初演以外では「自分の人生なんざ、そんな何度も見せねーよ」とその演目は封印していたのだが。
その演目を今回選んだのだった。
美坂野は舞い、見得を切り、唄い回す。
俺はお涙が欲しい、ってわけじゃない。
これは素直な自分の芝居だ。
心からの感謝。
舞台の上から野乃助、小志乃が泣いてるのが見える。
バカヤロウ、泣くんじゃねえよ。
野乃助、てめぇとは陰間の時に飯を分け合ったな。ひもじかったな。
小志乃師匠、今目の前で三味線を鳴らす女形の役の役者は小志乃師匠なんだ。
分かるかい?小志乃師匠程うまくねえし、声も図太いがなぁ。
春駒も出て来て見得を切り合ったり。
鶴賀や染芳の男役たちと三剣劇の舞いを猛々しく披露し合う。
千代吉役の女形ときらびやかな早着替えを披露して二人舞いを披露する。
舞台袖にいる千代吉の泣き笑いの顔が見えた。
芝居の中なら素直になれた。
実際では千代吉と舞い合うなんてすることはない。
だがお前も戦友だ。
元蓮華王院、木曽も出て来る。
ああ、木曽にも見せたかったなあ。
人情話を木曽役の男形と二人で語り物として話す。
鶴松役の若衆と舞いを披露しつつ花道を見得を切りつつ、足を踏み鳴らし最後の見せ場を披露しながら進んで行く。
人生は浮世(うきよ)だ。
憂(う)き世でもあり浮世でもある。
時の流れの中で流れ着く場所が辛いこともあるだろう。
儚(はかな)く夢に散る者もいるだろう。
それでも流れ流れて人生を全うする。
だからこそ人なのだ。
人でいられる。
美坂野は己の人生を舞台にしてその侘(わ)び寂(さび)、素晴らしさと儚さを表現した。
客は袖を濡らしながら共感しその演技に酔いしれた。
花道から美坂野がいなくなり幕が閉まる。
また幕が開き、美坂野は正座して客席に向かっていた。
「これにて美坂野一世一代の芝居はしまいにござりまする!!」
と頭をこすりつけてお辞儀した時。
大喝采と掛け声がかかる。
「美坂野屋!!」
「日本一!!」
誰もが涙を流し、その演技の深さに共感し心を揺さぶられた。
鳴りやまない手を叩く音。掛け声。
しばらくして美坂野は両手を上げて頷きながら客を静めた。
「鶴松、こっちへ」
袖口で泣いていた鶴松を舞台に呼ぶ。
「俺はもう思い残すことはない。今日の舞台以上の芝居はもう出来やしねぇ。出しきったぜ。鶴松の拍子木で俺は舞台から去る」
美坂野の独壇場に小屋がざわついた。
「後悔はねぇ。晴れ晴れした気持ちだ。鶴松、俺の為に送り拍子木を打ってくれ」
鶴松はさっぱりとした顔の美坂野の笑顔を見る。
鶴松の為に舞台を降りた時の美坂野にはまだ悔いがあった。
中途半端に舞台を鶴松の為に降りたのに悔いが見えた。
でも今は。
美坂野兄ちゃんは晴れやかな顔をしていた。
「これからは役者としてではなく一人の人間として鶴松と共に生きて行く」
美坂野の告白に誰も何も言わなかった。
役者美坂野の生き様を見させられその最後の答えが鶴松なのだろう、と江戸の町民も大奥の人間も分かっていた。
「さぁ、鶴松。幕引きだ。美坂野っていう役者の幕引きだ。送り拍子木打ってくれ」
それでも鶴松は手を震わせがら打つかどうか迷っていた。
この拍子木を打ったら。
もう舞台に美坂野は戻れなくなる。
鶴松は涙を目に溜めて美坂野を見た。
「いいんだよ、鶴松。打ちな」
美坂野が鶴松の背後に立って鶴松の拍子木を持つ手を握った。
「さぁ、もう幕引きにしよう」
澄んだ高い音が小屋に響く。
鶴松の目から我慢出来なくなった涙がこぼれて幕は閉まった。
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