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恋慕(れんぼ)
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「美坂野兄ちゃん、もう舞台に戻れない・・・・・・」
下を向いて震えながら拍子木を持って泣く鶴松を見て美坂野は言う。
「いいんだよ、鶴松。もうこれでいいんだ。役者よりも大事なもん見つけたからさ」
拍子木を固く握りしめて震えている鶴松の手を美坂野は優しく握りしめた。
美坂野が舞台を降りる、役者を降りるという言葉に小屋の人間たちが幕を閉めた途端に駆け寄って来た。
「美坂野、どういうことだ!?」
「あ?役者辞めんだよ」
「なんでだ!!お前はまだ人気があるのに!!」
「俺はもう今日以上の演技出来ねえよ。出しきったのさ。俺は満足だ。いい役者人生だった。もう満足なんだ」
「おい・・・・」
美坂野はうるさい小屋の人間に手を振って舞台袖へと鶴松を連れて歩いて行く。
舞台袖で見ていた千代吉は消えていた。
桟敷(さじき)にいる皆と合流でもしたのか、位にしか思っていなかった。
その頃千代吉は。
美坂野の役者を辞めるという独壇場を聞き、鶴松が頭を振りながら震える手で美坂野に後ろから抱かれるようにして拍子木を打つ姿を見てからそっと小屋を後にした。
あんないい芝居見たら。
泣けてきちまうじゃないか。
泣きながら川べりの方へと早歩きする。
あんないい芝居を見せてもらった小屋の近くで死ぬのは申し訳ないと千代吉は離れた川の橋のたもとに辿り着き、懐の刃を出した。
草履を脱いでその上に嘆願書を乗せて喉元を一突きしようとしたところで手を取られた。
「千代吉殿、まだ死ぬるのはいけませぬ」
「ええい、お離し!!お前は誰だい!!」
千代吉の手を取り、懐刃を手ではたき落した男は暴れて刃を拾おうとする千代吉をいなした。
「千代吉殿、私は依里小路様に命じられて見張っていました」
「ええい!!」
千代吉は興奮して話を聞かなかった。
「千代吉殿、どうか私の話を聞いて下され。依里小路様の元へ。悪いようにはなりませぬ!!」
依里小路に遣わされた密偵の男は暴れる千代吉を担ぐようにして小屋へと走った。
「ええい!!離せ!!」
「暴れないでください!!」
町民たちは二人の様子を不思議そうに見ていた。
千代吉が小屋に担ぎこまれようとしていたその時。
鶴松と美坂野は町人を小屋から出した後の、客席の方へと顔を出していた。
二階席に上がり、大奥の女たちと対面する。
「素晴らしい芝居でした。ほんとうによい芝居でした」
側室たちも御目見え以上の女中たちも目の前に現れた美坂野と鶴松に賛辞を送ると同時に二人の艶やかな色気と美丈夫ぶりに見とれていた。
「ありがたきお言葉」
「ありがとうございまする」
と美坂野と鶴松は正座して頭を下げる。
「そのように畏(かしこ)まらず、こちらへ参りませ」
二階席と渡り廊下の敷居を挟んで両者は語っていたが敷居を跨(また)いで大奥の女たちの輪の中に入る。
「このようによい日を過ごせたのも美坂野と鶴松の芝居のおかげ。何か褒美を取らせましょう」
「それはいいですね」
普段は仲の悪い側室たちはそれすら忘れて目の前にいる美坂野と鶴松に浮かれていた。
「お待ちくださいませ」
依里小路はそこで声を発した。
「奥の皆様。お伝えしたいことがございます。美坂野は大名の連名で私に直訴をして参りました。本来ならばさらし首のところでございますが」
「依里小路殿、それは初耳。どういうことです?」
依里小路は包み隠さず側室たちに話す。
美坂野たちから直訴を受け、沙汰待ちの身分であること。
江戸の町で鶴松と美坂野の身上に何があったかも。
依里小路は大奥御年寄。
大名から受けた手紙や献上物などはしっかり記録として残し、周囲にも見ていた者がいるので隠すことが出来なかった。
依里小路が直訴を大名の名前に連名で町民である美坂野、千代吉から受けた事実を隠したところで他から漏れる。
いくら依里小路でも守りきれるものではない。
隠した自分の立場も危うくなる。
だから大奥の側室たち、将軍の愛妾たちを利用しようと思ったのだ。
「まぁ。そのようなこと!!依里小路殿、許してやりなされ」
「ですが、規則は規則」
「規則、規則などと。規則も時として寛容であるべきではございませんか?もし、将軍や他の者に知れ渡り美坂野やその千代吉とやらが捕えられるようなら我ら側室から将軍には申し伝えましょう。そちは我らの願いを聞き届けてはくれぬのか、依里小路殿」
「いえ。奥の皆様が仰るのなら。私は奥の仕事を任されているだけの身。皆様にお仕えし大奥をまとめるのが仕事」
依里小路は心の中でほくそ笑む。
これで美坂野と千代吉のしたことは許される。
世継ぎの母様たちが味方になったのだ。
「して、美坂野。本当に役者を辞めるのですか?」
「もったいない。あれ程素晴らしい芝居をするのに」
「いえ。私の一世一代の芝居でした。奥の皆様に最後ご覧頂いてこれほど嬉しいことはありません」
「なんと殊勝な心がけよ。あっぱれです。依里小路殿。鶴松と美坂野が江戸の町で住みやすくなるように力を貸してやれまいか?それに褒美を与えたい」
「分かりました」
「上様も鶴松には大義の言葉ありですから。上様のお触(ふ)れをお願いしてみましょう」
「そうですわね」
美坂野と鶴松は大奥の女たちのいい匂いに囲まれつつ、二人を置いてどんどんと状況が変わって行くのを見ていた。
権力とは。
人の生き死にも変えてしまえるのだな。
と鶴松は気付いた。
美坂野がこれで救われたのが嬉しい半面。
役者人生に幕を閉じてしまったことに悲しい気持ちもあった。
「では鶴松、美坂野。我らは戻ります。近い内に大奥付けで褒美が届くでしょう。ありがたく受け取りなさい」
「はっ」
「ありがとうございます」
去り際に依里小路が美坂野たちに言う。
「美坂野。私は大奥と生きて行きます。あなたは鶴松と生きて行くのですね?」
「はい」
「そうですか。役者を捨ててもですか?」
「はい」
「美坂野、あなたの最後の芝居を見られてよかった。いい想い出になりました」
依里小路はしばらく美坂野をじっと見ていた。
「この気持ちは届かぬ場所に預けて大奥御年寄として生きまする。1階に千代吉がいます。千代吉にも沙汰はなしと伝えてあげなさい」
「ありがとうございます」
「千代吉に教えてあげなさい。千代吉の始めしことは最後良ければ全てよしと。悩むことも悔やむこともないと」
依里小路がどこまで知っていたのかは分からない。
もしかしたら江戸の怪異を起こしたのも美坂野たちというのを途中で気付いたのかもしれない。
だがそれには何も触れず、またもう言葉を吐くこともなく背中を向けて依里小路は歩き出した。
その背中に美坂野はお辞儀をしていた。
もう会うこともないだろう。
依里小路は心の奥底の気持ちをそっと押し込めて振り向かずに大奥へと戻った。
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