アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
夕焼け
-
「行ってしまったな」
「ああ」
染芳と野乃助は旅支度の格好で街道へと歩いて行く美坂野と鶴松の後姿を見送っていた。
美坂野は舞台を降り、役者人生に幕を閉じ鶴松もまたそれに寄り添うように生活していた。
江戸の町では以前のように二人を奇異な目で見ることはなくなった。
依里小路の計画もあり、江戸城の大樹公(将軍)、大奥からの褒美が送られ認められたことは町民の知るところとなり二人の生活は安泰だった。
だが。
鶴松の心は家族のことも今回の件も含めて陰鬱(いんうつ)としており、目も悪くなっていった為野乃助がかねてから言っていた「旅に二人で出よう」というのを実行した形である。
美坂野は鶴松の目がまだ見える内に、また家でぼうっと毎日を過ごしている鶴松の気を晴らす為にも二人で旅に出たのである。
美坂野と鶴松の姿が見えなくなって染芳と野乃助は歩き出した。
江戸の町は落ち着きを取り戻している。
「俺たちのして来た日々が随分昔のように思える」
「そうだな」
鶴松と湯屋に行ったり三味線を弾いたり、鶴松の貸本屋に染芳や美坂野と集まってお茶を飲んだり。
鶴松は昔のように笑わなくなっていた。
時の流れ、人の残酷さをそれぞれが経験した日々だった。
「小志乃師匠のところに寄ろう」
「そうしよう」
二人は小志乃師匠のところに寄る。
小志乃師匠の家の前に出されていた長唄手習いの看板は無くなっていた。
戸を叩くと頬被(ほっかむり)をしている小志乃が出て来た。
「染芳さん、野乃さん。若さんと美坂野さん行きましたのね?」
「はい、今見送ったところです」
「そう。片付けていて何もないけど上がって下さい」
小志乃の家はすっかり整理されていた。
「此度(こたび)は御結婚おめでとうございます」
「私には過ぎるお話ですわ」
染芳の格式ばった言葉に小志乃は俯(うつむ)き加減に恥ずかしそうに手を振った。
小志乃は鶴賀と近々婚姻することになっていた。
「そんなことありません。絵になる二人です」
「ですが私は後家(ごけ:未亡人)でございますでしょう?鶴賀殿は初婚。私などを選ばずとも町娘誰しも与力の鶴賀殿になびきますでしょうに。何故私などと」
鶴賀の申し出を最初の内、小志乃は拒んでいた。
それはまだ死んだ夫を愛していたというのもある。
後家であるというのもある。
鶴松と美坂野のことで心を痛めていた小志乃であるから自分の幸せを考えている余裕はなかった。
だが鶴松から
「小志乃さん。幸せになって」
という後押しがあった。
それでも待つ、という鶴賀の言葉もあった。
二人の気持ちにほだされた形で今日(こんにち)粛々と身の回りの整理を小志乃は始めていたのである。物を整理しながら気持ちの整理もしていた。
手習いの師匠も廃業し、家の片付けをして近日中には鶴賀の住む屋敷に住むことになる。
「鶴賀殿は結婚を小志乃師匠が承諾してくれるまで何度も私に小志乃師匠はどんな花が好きか、いつも男が長唄を習いに来ているが心憎からず思っている男がいるのかとそればかり聞いて来ましたよ」
と染芳は言う。
「そうですよ小志乃師匠、鶴賀殿は真面目な人です。幸せにしてくれますよ。あの方のところへ行くべきです」
野乃助も染芳の言葉を後押す。
それは陰間時代から鶴賀を見ていたから知っている。
染芳と同じように堅(かた)い人間だ。
俺には一度だって手を出さなかった。
金で俺を買っておきながら飲めない酒の酌をさせて無理して飲んでただ俺の顔を見て「綺麗だなあ」と見ていただけだった。
野乃助も当時そんな不器用な鶴賀のことを好きになっていたのかもしれない。
今では過去のことだ。
二人共若かった。
今は染芳がいる。
「鶴賀殿は綺麗な人が好きなんですよ。だから江戸きっての美人の小志乃師匠にはお似合いです」
「まぁ。そんな世辞(せじ)を言うなんて。染芳さんも女の扱い方が分かるようになりましたのね」
「隣にいつも男も女もあしらいのうまい人間がいるものですから」
「俺のことか」
三人は笑う。
「そうだわ。二人に頼みがありますの」
「なんです?」
「以前千代吉さんが住んでいた頃に忘れて行った櫛(くし)がありましたから吉原に届けに行って頂けないかしら?女の私は大門をくぐれません」
「分かりました。お預かりします」
「お願いします」
染芳と野乃助は小志乃の家を去って吉原へと向かう。
昼見世の時間帯だが冷やかし客ばかりのようで客人は歩いてなかった。
見世の格子窓にも遊女の姿はチラホラとしか見えない。
夜見世の為にまだ寝ていたり客への営業の手紙でも書いて過ごしているのかもしれない。
仙吉楼に着く。
野乃助と染芳が来たという一報を受けて店の奥から千代吉が現れた。
以前のような花魁の前帯だらりではなく動きやすい着物を着て耳には筆を差し、たすき掛けをしていた。右手には算盤(そろばん)を持っている。
以前には見られない姿である。
ただその美貌はまだ健在だった。
「ああ、ちくしょう!!計算が合わない。野乃助、染芳殿。店の奥の座敷に先に行ってておくれ。茶でも用意させよう」
「忙しいならすぐ帰りますよ」
「いいから。寄って行きな。染芳と野乃助を奥の座敷に案内してやっておくれ」
近くにいた禿(かむろ)に千代吉は言うとまた小走りで戻って行った。
仙吉楼の旦那は胸を患って寝たきりになり、店を今切り盛りしているのは実質千代吉だ。
仙吉楼の遊女を選ぶ際の客あしらいも千代吉がしているが遊女の取り分がいいようにうまく客を手玉に取っているらしい。
仙吉楼の遣(や)り手婆と呼ばれる日もそう遠くはないだろう。
依里小路から大奥入りしないかと言われた千代吉の若さと美貌だったが千代吉はそれを断った。
「あたしに大奥なんて無理さ。あんな雅(みやび)でえげつない世界に町人でしかも吉原の女が馴染めるわけがない。あたしは口よりも先に手が出ちまうからね」
と千代吉は笑っていた。
依里小路としては将軍のお気に入りになるだろうと見込んで千代吉に声をかけたのだろうが千代吉の疳(かん)の虫の強さを知って簡単に引き下がった。
千代吉が大奥に入ったら他の側室たちや女中たちと殴り合いの喧嘩をしかねないとその気性の激しさに思ったのだろう。
「待たせたね。一服しよう」
煙草盆から煙草を取り出し、キセルにつめてプカリと千代吉は煙を吐く。
「これ、小志乃師匠に頼まれて。家に忘れていた櫛だそうです」
「ああ。届けてくれたんだね、ありがとよ。でももう花魁でもないし髪の毛あたっている程暇じゃないから櫛(くし)で髪を梳(くしけず)る暇さえないよ」
千代吉は笑いながらはねている髪を片手で撫でつけていた。
「忙しそうですね」
「おかげ様でね。女たちにオマンマ食わせて行かないと。路頭に迷わせるわけにはいかないからね」
遊女だった千代吉なら遊女たちの気持ちも境遇も分かるからいい女将になるだろう。
客にも遊女にも居心地のいい吉原一の店になるに違いない。
「鶴松と美坂野は行ったのかい?」
「はい」
「そうか。私は店があるし春駒も番頭見習いで店を抜けられなかったし・・・・小志乃師匠は見送れなかっただろう?師匠は優しいから二人が去って行くのを見たら縋(すが)ってでも泣いて止めただろうしね」
「そうですね。小志乃師匠の家を尋ねた時、小志乃師匠の目が真っ赤でした」
「一人で泣いていたんだろうさ。いつ戻って来るとも言わない鶴松と美坂野と今生(こんじょう)の別れになるんじゃないかと思っているんだろうね。そんな見送り出来るわけがない」
「だと思います」
美坂野と鶴松はいつ江戸に帰って来るとは一言も結局言わずに行ってしまった。
家の家財道具を全部売り払って金にして家も退去して行ってしまったのだ。
二人と会えなくなるかもしれないと思わないわけがない。
「小志乃師匠にはこれから鶴賀殿と歩む人生がある。師匠にはくれぐれも気を落とすなと言ってあげな。あたしも暇があれば小志乃師匠と鶴賀殿の屋敷にでも出向いて結婚祝いでも渡そう」
「はい」
仙吉楼の帰り際に千代吉に言われて野乃助は返事をする。
染芳と帰る時。
夕焼けが江戸の町を覆っていた。
江戸の町には屋台が出て独り者の男たちが屋台で飯を買い、吉原に意気揚々と向かう男衆や、風呂屋に向かう子連れや通りに囲碁を出している者や家から長唄が聞こえてきたりと活気が溢れていた。
人の多さに活気が溢れているのに。
野乃助は切なかった。
この町のどこにも鶴松も美坂野もいない。
こんな綺麗な夕陽の日には知らずと涙が出て来る。
染芳が野乃助の肩にそっと手を置く。
それぞれが幸せに向かって進んでいるはずなのに。
野乃助は悲しかった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
70 / 80