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双六(すごろく)
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「鶴松、少し休もうか」
「うん」
道端に腰かけて竹の水筒に入れた水を美坂野と鶴松は回し飲みをした。
随分と町から離れた。
鶴松と美坂野以外誰もいない道だった。
今日は山越えは厳しいかもしれない。
どこか宿場町に出られればいいが鶴松の体調次第だ。
夜になれば獣も夜盗も化け物も出る。
その前に鶴松と休める宿を見つけよう。
真上でギラギラと輝いていたお天道様が今は橙色になっている。
「美坂野兄ちゃん。雲」
「ああ、綺麗だな」
鶴松が橙色に染まった雲に向けて両手を伸ばしていた。
「近くに見えるのに届かないね」
「そうだな」
「僕まだ雲見える」
「そうか」
眼鏡をかけているが鶴松の目はどんどん悪くなっていた。
将軍と大奥の贈り物に高価な眼鏡も入っていたがその眼鏡も鶴松の目には合わなくなって来ている。
美坂野はあせっていた。
鶴松は目が見えなくなって来ている。
家でただ正座してぼうっとしている。
美坂野の呼ぶ声にも気付けない位に心がどこかに向かっている。
鶴松は生きることに疲れているように思えた。
綺麗な物をたくさん見せてあげたい。
汚いことばかりだったから。
この世の綺麗なものを全部見せてあげたい。
生きることの素晴らしさを。
見せてあげたい。
「鶴松。ほら」
美坂野は道端に咲いていた花を摘(つ)んで鶴松の手に持たせる。
「綺麗だろう?」
「うん、綺麗だね」
鶴松が珍しそうに花の花弁を触りながら見ていた。
「もっと西の方には人の背丈以上に高い花があるそうだぞ。いい匂いがして綺麗だそうだ」
「わぁ」
「面白い物がたくさんあるぞ。綺麗な物もたくさんある」
「うん。あ、見て。雲が」
鶴松が空を指差す。
一筋の雲が真っすぐにどこまでも伸びていた。
「野乃ちゃんや染芳さんや千代吉姐さんや小志乃さんや鶴賀さんや春ちゃんや木曽様や依里小路様のところの空まで届いてるかなあ」
「きっと届いてるよ」
鶴松が懐かしそうな顔をして空をずっと見上げていた。
優しくも悲しそうな顔だった。
「いつもと同じ空なのに。なんで昔と見え方が違うんだろう?」
鶴松が涙声で美坂野に尋ねる。
「鶴松、行こうか。どこまであの雲続いてるんだろうな。行ってみよう」
鶴松の手を引っ張ってまた二人歩き出した。
手をつないで誰もいない道。
うつむく鶴松の手を引っ張って美坂野は歩く。
鶴松は運が悪かっただけだ。
双六(すごろく)のように。
悪い出目ばかり出ただけだ。
また振り出しに戻って。
そこから始めればいい。
誰もいない道の上に二人。
また新しく初めから賽(さい)を投げよう。
また悪い出目だったら笑い飛ばして振り出しに戻って二人で賽を振ろう。
暗くなって、道が見えなくなったら。
このつないでいる手の指先に残る物が。
鶴松に柔らかな朝を迎えさせることが出来るように。
離さずにつないでいよう。
役者を辞めたことも江戸の家も何もかも全部売り払ったことに迷いも後悔もない。
鶴松がどこかに行ってしまうことの方が恐い。
俺を置いてどこかに行ってしまったり、誰もいけない場所に逝ってしまうことの方が恐い。
道にうずくまっていたあの時。
饅頭を鶴松からもらったあの日から。
ずっと。
ずっとそうだった。
いつか二人で最期の日を迎える日まで。
鶴松をこの世界に繋ぎ止める。
俺や野乃助や染芳、小志乃師匠や千代吉、春駒、木曽、鶴賀や依里小路のこの生きる世界につなぎ止める。
鶴松が逝きたいなら俺も一緒に逝ってやる。
でもな、鶴松。
まだ早ぇーよ。
俺がもっと生きることの素晴らしさを教えてやる。
美坂野は急き立てられるように歩く。
鶴松にもっと。
もっと生きて欲しい。
繋ぎ止める。
全ての想い出を。
辛(かろ)うじて生きている鶴松に。
縁(ふち)なしの絶望の中にいる鶴松に。
生きることの素晴らしきを伝えるのが最後の美坂野の願いだった。
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