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人道
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「明日小志乃が鶴賀殿の家に入るのだそうですね」
「はい」
上座に座る依里小路に鶴賀は答えた。
「小志乃の家は武家の中でも戦国時代から続く名家。小志乃の兄が家督を継いでいるようですが嫁ぎ先に失敗し実家にも居場所がなくて小志乃は町人に身を落としていたのですね」
「本人は語りたがりません。祝言もしないでよいと言われています」
「そうですか。鶴賀殿、鶴松と美坂野は江戸を去ったのですね」
「はい。いつかは二人帰って来ると信じておりまする」
「それはどうでしょうか」
最後に鶴松に会った時。
鶴松は呆(ほう)けたようにぼうっ、としていた。
依里小路は鶴松の家族のことも調べていたが短期間で様々なことがあり過ぎたのだろう。
依里小路は武家の出で実家は没落し家柄だけを頼りに大奥に13歳の時に入って今の地位を築いたが。
もうあれから十数年。
29歳になっていた。
想い出が重ければ重い程人は前には進めぬ。
だが。
年齢を重ねた者は想い出や気持ちに対しても心細やかではなくなる。
感じられる気持ちも鈍化していくもの。
時間が解決してくれるなどと人は綺麗事を言うが。
それは違う。
己の心が慣れてしまうだけだ。
時が過ぎようと過ぎまいと強く心に残るものは死ぬまで残る。
時間が変化をさせるのではない。己が変化するのだ。
なんとも思わなくなるということを時間のお陰みたいに言うが。
年齢を重ねれば全てにおいて鈍(にぶ)って行く。
気持ちも体も鈍って行く。
ただ鶴松は若かった。そして今もまだ若い。
目をそらせずに日々の中の出来ごとを受け止めてしまっているのだろう。
私のように目をそらし、流してしまえば生きやすかろうに。
人は歳を取れば感情が鈍る。
都合の悪いことには目を瞑(つむ)り、心で泣いて顔面は笑う。
呪いの言葉を腹に収めながら祝詞(のりと)を上げる。
生きるということはそういうこと。
鶴松にはまだそれが出来ない、もしくは出来ない人間。
きっと他の者とは違う・・・・鶴松の実家の者が神様憑きと判断したように鶴松は他とは違うのだろう。
鶴松は長くは生きられぬ運命(さだめ)。
見た目では他の人間とは全く違いはないが話をしたり様子を見る限り。
他とは違う。
そういう者は昔も今も変わらない。
童心のまま大人になる者たち。
心は童心のまま体だけ大人になって行く。
長くは生きられまい。
この者たちはそれに気付いていながら鶴松の周囲に集(つど)いたがるか。
それを言ったら私もか。
依里小路は笑う。
「どうかなさいましたか?」
「いえ。私も人だったのだなと思って嬉しくもおかしく思ったのです」
鶴賀は頭をひねっている。
あなたには分かりますまい。
女の園、大奥。
人であっては生きていけぬ。
鬼にならねば。
そんな日々だった。
人を陥(おとしい)れ、取り入れ、人の間を渡り歩き、裏切りや嫉妬、ひがみ、そねみ。
そんな毎日を何年も続けて来た。
そんな私にも人の心があったか。
鶴松を不憫に思う気持ち。
美坂野を見初(みそ)めた恥ずかしくも晴れやか気持ち。
もうずっと忘れていた人としての感情。
依里小路は人前では見せないキセル姿を鶴賀の前でさらした。
「!?依里小路様、煙草を嗜(たしな)まれるのですか?」
「大奥の女は嗜む者は多くおりまする。たまには息抜きもよかろう」
お付きのお琴と梅が準備した煙草盆に手を付けてキセルを手に持つ。
ぷかりと煙を吐く。
将軍の実母が大奥の実権を握ろうとし、また風紀が乱れた時には大奥御年寄として将軍の実母に苦言を呈したこともあった。側室たちに陥(おとしい)れられたこともある。
そのことで飲み水に毒を盛られたことも自分の住む部屋で火の手があがりボヤ騒ぎが起きたこともある。
誰が指示しているかは明白だったが、顔では笑い、鉄の掟と鉄の心で負けはしなかった。
いくら屈服させても諌(いさ)めても次々と新しい人間が台頭して来ては大奥の権力を握りたがる。
その度に潰して来ては大奥の為、将軍の為に尽くして来た。
戦場にいるから武士は武士でいられるように。
大奥に弱者はいらぬ。
強く美しい女たちだけが生き残れる女修羅。伏魔殿。
そこに生きる私たちはもう人ではないのだろう。
そんな私でも鶴松を可哀想に思える気持ちや美坂野に恋する気持ちがあったのが嬉しかった。
側に仕(つか)えていたお琴と梅を部屋の外に出した。
ここから先の話はまだ聞かせるわけにはいけない。
お琴と梅が部屋を出て歩き去る足音を聞いた後、鶴賀に依里小路は向き合った。
「私は許されるのなら近い内に大奥に暇を願い出ようと思います」
「なんと!?大奥を出られると仰いますか?」
「許されるかは分かりませんが後継に後を任せて私はどこかで静かに暮らしたい」
「さようでございますか。ですが簡単には手放してはくれますまい。今の江戸城や大奥がうまく成り立っているのも陰で支える依里小路様のお力のお陰なのは家老様たちも将軍様もお分かりでしょうし」
「私は」
私はもう人として生きたい。
旅に出た鶴松と美坂野の話を聞いて心から思った。
羨ましい。
私もいつか。
人間らしい生活をしたい。
こんなことを言えば鶴賀に笑われるような気がして言葉にはしなかった。
「よい嫁を迎えましたね。私からもいずれ祝言の品を送りましょう」
「ありがたき幸せ」
鶴賀のお辞儀を見て依里小路はニコヤカに笑った。
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